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2019年12月8日日曜日

The Late Dr. Tetsu Nakamura's Talk on Afganistan (Sep 2019) 中村哲医師講演メモby Mari Takenouchi








Dr. Nakamura who dedicated his life for Afgan people.
アフガニスタン人に身を捧げた故・中村哲医師
 
My English translation follows after my Japanese note.
by Mari Takenouchi

ショックです。2019年12月4日、中村哲医師がアフガニスタンで銃撃され、亡くなられました。
現代日本で最も偉大な人物だと思っています。約3か月前に中村医師が沖縄でされた講演メモとともに(仮英訳付き)、心からのご冥福をお祈りしたいです。

On December 4, Dr. Tetsu Nakamura, who I believe the greatest person in modern Japan, passed away due to gun shots in Afghanistan.   I would like to offer my heartfelt prayer with the following lecture memo taken 3 months ago in Okinawa. (temporary English version follows in the latter half.)

中村医師はたまたま、2019年9月7日に沖縄に呼ばれ、ご講演されました。
Dr. Nakamura visited Okinawa to give the following lecture on September 7, 2019.

中村哲さんが来られるということで、久しぶりにパソコン持参で気合を入れて、お話を聞かせてもらいました。 前回このようにパソコンを持ちこみ、このように講演メモを取ったのは、2013年東京に、チェルノブイリの医療活動及び研究における第一人者バンダジェフスキー博士http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.htmlが来た時以来かもです

As Dr. Nakamura was going to come to Okinawa, for the first time after a long time, I brought my PC to take a detailed lecture memo.  The last time I did this was when Dr. Bandazhevsky, the No. 1 medical doctor and the scientist after Chernobyl accident, came to Tokyo to give a lecture.
http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.html

 とにかくすごかったです。昨日、アフガニスタンに1600もの井戸を掘ってきた中村哲医師、本当に素晴らしいご講演でした。このような偉大な人物が、素晴らしいスケールの人道活動をしている最中に道半ばで、いとも簡単に理不尽にも撃ち殺されてしまうなんて、本当に残念でなりません。
The lecture by Dr. Nakamura, who made as many as 1600 wells in Afganistan, was truly amazing. It is such a shame that a man of such a great soul was shot to death this.

日常的に今でも起きている各地での戦闘に合わせ、このように理不尽に殺されてしまう被害者をなくすため、全世界で、兵器、爆弾、銃規制(日本で銃規制があるのは非常にありがたいことです)を行うべきだと私は大真面目に思っています。
I sincerely wish that there would be a world with total restriction on weapons including bombs, shells, and guns in the entire world.  (It is a nice thing that Japan has a gun control at least, but I think this should be applied in every country in the world and also larger weapons should definitely be banned in the world.)

*********
沖縄県9月7日

講演後に購入した中村哲医師の本。数々の賞を受賞した「すごい本!」です。講演会の帰りに、受付に並んでいた本を見ていたら、アフガンで活動を共にしていたという若い青年が、「いちおし」してくれたのですが、さすが、その価値ある、本当にものすごい本です。(その青年は赤ん坊をだっこしながら受付をしていましたが、今はご自身のお子さんが幼いということで日本にいるようですが、将来、中村医師に何かあったら、アフガンにまた行くと言っていた、とても良い顔をした青年でした。ああいう立派な青年が中村医師の素晴らしい活動を将来引き継いでいくのだろうなあと感じていました。)



97日 「アフガニスタンに命の水を」中村哲医師
(沖縄キリスト教平和総合研究所、大学コンソーシアム沖縄 県民向け公開講座) 

(紹介)1946年生まれ、九州大学医学部卒業 1984年ハンセン病患者の治療のため、パキスタンのペシャワールへ 91年アフガニスタンに難民のための診療所開設 98年 基地病院PMS(ピースジャパン・メディカル・サービス)をペシャワールに設立、パキスタン山岳地で巡回医療、井戸の数16002002年春からアフガンにおいて緑の大地計画、土木工学を独学、20103月、27キロの用水路を完成。「農業で忙しくして戦争をしている暇はない。大事なことは生きることです。命こそ大切です。」第一回沖縄平和賞受賞

(中村哲医師ご講演、竹野内のメモ)
沖縄には、23回来ている。
35年前にペシャワールに赴任して医療活動、現在は川の中で河川工事。
なぜ医療団体がアフガニスタンで河川工事をしなければならないのか。
病院の院長が重機を使わねばならないのはなぜか?

アフガニスタンは日本にとってなじみはうすい。
日本から西に6000キロ、地球の乾燥ベルト上にある。ネパールのヒマラヤ山脈7000メートルの西端が、キンズーツク山脈で、アフガニスタン。日本の1.7倍の国土の8割以上が高山。有名なことわざに「金がなくても食べられるが、雪がなければ食べていけない。」
2000万人の9割近くが自給自足の農業。雪山は水の源。
最近山に異変が起きている。雨はほとんど降らず、ジャララバードでは年間200ミリくらい。沖縄の12時間程度の降雨量が年間降雨量だ。

水さえ降れば、植物は豊かだ。450年前まで自給率100パーセントの国であった。
多民族国家で谷ごとに、異なった集団が住んでいた。地方自治が徹底している。

私たちはアフガン東部で活動している。パキスタンと民族も言葉も同じだが、今は内乱が激しく、主にアフガニスタンで活動している。国民の100%がイスラム教で、個人の宗教としてだけでなく、地域と地域を結ぶものとなっている。
金曜礼拝は必ずし、人々が交流、もめごとはすぐ解決する。日本人にはわかりにくいだろう。

国の貧富の差が激しい。アフガニスタンでも金持ちは、たいした病気でなくとも、NYやロンドンにすぐに飛んで治療を受ける。しかし多くの人が数十円というお金がなくて死んでいく。外国人とはよくもめる。よく外国人が逃げて行ってしまう。

私たちは現地の社会改革はしようとしていない。命を守ろうとしているだけだ。ただ違いを遅れているとか進んでいるとか、善悪で裁くのはおかしい。現地の風習や習慣は、私たちがおかしな目で見ないこと。それが方針だ。

82年前に、はんせん病根絶5か年計画。当時はハンセン病・らい病の根絶への機運が高まった。現地に行ってびっくりしたのは、治療センターを建設するはずであったのが、千数百名の患者に対し、16床のベッドしかない。医療器具もない。そこでペシャワール会の募金活動を活発にするようになり、現在に至る。

赴任した当時は内戦が始まったときであった。1979年ソ連軍のアフガン侵攻、9年間の内乱、200万人もの死亡。国民の10パーセントが死亡、600万人が難民としてパキスタンやイランなど隣国に逃れた。

医療方針の大転換をし、アフガンの農村部に医療拡大。ハンセン病だけでは成り立たない。特定の病気だけでは仕方ない。結核、マラリア、アメーバ赤痢などあらゆる感染症がある。現地では、ハンセン病に対する偏見が少なく、特別な病気でない。一般診療をすべきである。
農村地域の医療モデルを作りたかったのである。

ヌーリスタン山村には、ペシャワールから片道1週間。取材対象は都市部か戦争場面ばかりで、外国人の新聞記者は来ないような場所で診療。

そのうちソ連軍が撤退、まもなくソ連が崩壊。その後、次々と診療所を開設。
欧米から支援を受けたゲリラグループが首都に進出。カブールが一時廃墟。これを抑えてタリバン政権が台頭し、私たちはホッとした。ソ連が支配していた時期のほうが治安が良く、ソ連撤退後は強盗などの犯罪が多発。診療所も実際襲撃された。

2000年夏、大干ばつという異変が起きた。実際に診療所の目の前から村々が消えていった。物理的に緑の村落が消滅していくのを見た。WHO報告によると飢餓線上が400万人、餓死線上が100万人。今も干ばつの地域は広がりつつあり、私には訴える義務がある、と思った。

子供の腸管感染症、赤痢、チフス、コレラが大流行した。子供が次々と死んだ。水がない。子供が衰弱。赤痢にかかっても、ころりと死んでいった。若いお母さんが何日もかけて我々の診療所に来た。外来に待っていても、待合室から突然叫び声が聞こえ、子供の息が絶えてしまうことが日常的に起こっていた。医療というものはいかに無力か。いくら薬をもっていってもおなかの減った人、のどの乾いた人には食料や水が最高の薬なのである。清潔な飲料水と十分な食料が大事なのだ。

20008月から枯れ井戸を再生し始めた。その後1600もの井戸を掘り、現地の人々が村で暮らせるようにした。

2001911日、当時、米ブッシュ大統領の時代、NYで同時多発テロが発生。翌日から実行犯とみられていたアルカイダをかくまっていた、というだけで、アフガンに報復爆撃が始まろうとしていた。ほっといていても、アフガニスタンは息も絶え絶え。そこに爆弾を落とすのか。といっても私たちの意見は少数意見。私は日本と現地を行き来しながら、募金活動をした。

10月から空爆開始、首都爆撃が間近に迫る中、異様な光景を目撃した。カブールは標高が高く、冬は寒い。裕福な市民はほとんど国外へ避難。貧しい残った人々は1割以上、生きて冬は越せないだろう、と思った。私たちは1800トンという20万以上の人々が飢えない量を届けた。

皆がTVをかじりついて戦争を見ていた。高校野球やサッカーを見るように、軍事評論家といわれる人々が「米はピンポイント爆弾で一般市民には迷惑をかけていない」などと真実でないことを平気で言っている。実際は女子供、年寄、体の不自由な人が真っ先に犠牲になっていた。一発の高性能爆弾で私たち20名もやられる可能性もあったが、無事、食料を提供できた。私のみではなく、職員らの手で、人々への食糧配給ができたのである。その後タリバン政権は崩壊した。

「極悪非道のタリバン政権」を打ち破った、という嘘ばかりがデマ報道されていた。自由を享受し、ブルカを脱いだ女性たちの姿がTVに映っていた。そしてアフガンは世界から忘れ去られていった。

実際は何が起きていたか。タリバン政権時代にケシ畑はなくなっていたのが、米軍とともにケシ畑が復活した。自由といっても道端で乞食をする自由。若い女性が外国軍に売春をする自由といったものだった。

私たちはまずは人々の命を助けたかった。カレーズという地下水を灌漑する方法。名前はカレーズでも枯れていく。掘っては枯れ、掘っては枯れ。地下水脈そのものが少なくなっていった。

2003年、緑の大地計画を立てた。マリワリード用水路の建設。100の診療所よりも一本の水路。27キロの水路で15万人が生活できた。計画立てるのは簡単だが、作るのは大変。つるはしとシャベルしかない。お金がたまってから作るのはどうか?と考えるだろう。アフガンの農村部には政府の手が行き届かない。物資も技術者、外国団体が怖がってこない。

用水路を維持して子孫に伝えるのは地元の人たちだ。地元の人々の手で作り、維持できる用水路を目指すべきということで、大幅な設計変更ができた。アフガンの現地で電気が使える場所はほとんどない。

日本とアフガンに残っている昔からの技術に注目した。日本とアフガンの河川は急流。農業の土地も谷などで狭い。灌漑をする点で似ているはず。できるだけ現地の技術と資材を使うことにした。220年前に作られた筑後川の斜め堰など。アフガンにも似た設備がある。

アフガンの農民はみな、熟練した石職人。川の堰が現地の人で作れた。柳を植えると水草も生え、魚が住み、生物多様性に申し分なく、メンテナンスも申し分ない。柳の根っこが石の隙間に入って川の堰が壊れない。昔の人々の知恵に支えられた。石油を買う金がないから水車を作った。外国人はいつかいなくなるので、現地で作るものは自分たちで、自分たちのやり方で作るのが良いのだ。

着工から3年くらいで砂漠化した村々に水が届き始めた。砂漠化した村が緑で覆われ、復興していった。案外復興が早くて我々自身がびっくりした。ガンベリ砂漠は摂氏51度や52度にもなる。熱中症で倒れる人が続出した。誰も手を休めず作業。日当も出した。彼らの願いはたったふたつ。一日3回ご飯を食べること、そして、ふるさとに家族とともに住めること。それがかなわず、難民化した人々。

10年前の200989日か10日に用水路の試験開通テストをした。水が流れるのを見て、住民らが私のもとに来て言った。「Dr、これで私たちは生きていける。もうこれで何もいらない。」これが真実なのである。

その後、日本海側によく植えてある松林をアフガニスタンにも持ってきた。松林は観光用と思われているかもしれないが、もともと農地を守るためのもの。砂嵐をふせぐ、アフガンに植えた松林は、今は10メートルとなって緑の地だ。砂漠では田植えもできるようになった。野菜、果物、まきも取れる。15万人の難民化していた人々が戻ってきた。

ところがこれで終わりでない。温暖化の問題が出てきている。干ばつは温暖化以外に考えられない。戦よりも食糧自給。進行すると干ばつで滅びる。春の降雨量30%減少。60年で1.8度上昇。

アフガンは内陸部で二倍の速度で温暖化が加速している。雨が局在化して降っている。気温が急激に上がると山の雪により、記録的な洪水が起きる。洪水の後は、山の雪がなくなるため、川の水位が低下する。地下水も、鉄砲水は増えても、水が浸透する時間がないので、結果干ばつとなってしまう。大きな川からも水が取り込めない状態になってきた。

このような気候変動に影響を受けない灌漑用水を建設をしなければなりない。次の課題は取水設備の研究、洪水にも渇水にも耐える取水堰。福岡県朝倉市の斜め堰をモデルにした。地元の人々が工夫したものは、水を必要以上に余計にとりこまない、ほどほどのものである。めぐみに応じた水の取り組み方法を我々も再現した。

35年の後半は干ばつ対策に明け暮れてきた。そして圧倒的な地域の支持を得て地域の協力者が増えた。協力者の数はのべ100万人以上、数百人以上が我々とともにいる熟練工といってよい人々だ。

昨年度から訓練を広げる訓練所を開講。昨年2月にアフガン政府も、私たちの方法を基準として取り入れ、私たちも、さらに前進している。大干ばつ、空爆にもかかわらず、東部復活計画がほぼ達成。次にはこの地域から全国展開しようとしている。中央からの展開は地域を必ずしも考慮しないこともある。逆に地域から全国へ展開していくのだ。

最後に、人間と自然が折り合って生きなければ、我々の将来は暗い。化石燃料に頼って、消費と生産を繰り返し、自然から無限に搾取する時代は終わった。私たちはどこに行こうとしているのか。大きな視点で眺めて、自ら自分の将来を考える時がきた。ことはアフガニスタンだけの問題ではない。

(以上で、ご講演終わり。次は質疑応答から主だったご回答をメモしました)

(現地の人々の公衆衛生や健康状態について)
水が来てから子供がころりと死ななくなった。腸管感染症だけでなく、マラリアなどに対しても抵抗力が高まり、病気で死ななくなった。手を洗うなど、公衆衛生教育もしているが、田舎のインフラはとにかく水に尽きる。一方、アフガンから留学生を日本に送ると戻ってこなくなる。MRTCTその他のハイテク技術のある先進国にとどまってしまうのだ。教育というのも、進んでいればなんでもよいということではないと思う。

(日本の今をどう思うか)
地理条件が似ている日本だが、農村に元気がない。日本は水はいくらでもあるのに、元気がない。どんな原因があるのか。若い人が農村に居つかない。教育によって、農業よりも商業や都市の華やかなものにあこがれる。お父さんお母さんを捨てて、職を求める。アフガンでも、首都カブールでさえ職がないので、ヨーロッパに逃げていく。その結末が日本だ。食料自給率が30パーセント。金出せばなんでも買える。そういう傾向が増えていて、それが世の中のまっとうな流れのように思われていることに、私もショックを受けている。今は外国人労働者もお金で連れてくる。でもお金がなくなったらどうするのか?敗戦当時、日本人も庭に野菜を作っていたが、その元気はどこに行ったのか?日本中が農業を復興させるのが大事になるのでないのか。アフガンの人々の水を持ってきて喜ぶ状態とは全く違う状態が日本にある。教育も社会も変えないととんでもないことになるのではないか。

(今後の計画について)
アフガンでは今まで地域が一丸になっていたからできた。よその地域でマニュアル的に広げることはできないと思う。まずは隣接地帯に拡大するのが一つのやり方ではないか?我々の作業員自身がかかわれる。中央政府が出てくると大体の計画がダメになる。役人そのものが交代制なので、その地域に対して責任感がない。相当長い間、我々自身がいなければならない。20年は継続したい。ただ私はずっと生きていけるわけではない。今現在は6万ヘクタールのモデル地域を作るのが、大きな仕事で、これには自分も関われる。

温暖化は絶望的だ。政府や外国団体が怠けていたとは思わないが、でもことごとく失敗してきた。私たちの事業は唯一成功し、希望となっている。その意義は減らない。今後20年は最低やっていきたい。具体的には、現地の経済も自活できるようにしたい。このプログラムも完成させつつ、日本の支援も受けつつ、20年は続けたい。

(医者としての心構えについて)
医者として常に考えていなければいけないのは、患者が何を考え、何が苦しいのか、どうしてほしいのかをくみ取る医療関係者でなければならない。これは海外にかかわらず、日本国内も同じ。相手の気持ちがわかること。聞くことができる人。私自身も医者にかかることがあるが、患者の要求を全く理解せず、「なんだろう、この医者は?」と思うことがある。

私たちの場所は、60万人以上住んでいるが、今パキスタンに避難民受け入れができないので、うちの場所に来ている。うちの地域は治安は最も良い場所だ。銃を握って戦っている人々は食べられなくて、傭兵になっている。そのために治安が悪くなる。うちの作業員の中にも銃を握っていた人も珍しくない。

(地域を変えるという意識について)
計画を実行するには、まずは信頼が最初。技術より始めに信頼。
政治的なことはややこしくする。
女性の立場云々は、現地の人に任せるべきだ。
私たちがやるのは命を守ることのみ、それからは現地の人に任せる。
アフガンは女性と握手もできない社会。本来ばちばち女性の写真も撮れない社会だ。
私たちの活動に女性が全く写真で出てこないと疑問を持つ人がいるが、そうではないのだ。
だいたい農村では、一番厳しい女性の労働は、水くみ。干ばつの時は毎日56キロを往復しなければならない。だから我々の活動の一番の協力者は女性だ。

教育についてだが、教育が浸透すればするほど、若い人が年寄を捨てて逃げていく。ここまで考えなければならない。

(自分の生活を犠牲にして危険を冒し、なぜここまで活動を続けられるのか)
意欲がある人はたくさんある。
ただ条件がそろわないとできない。
自分の場合は、すんなりとできた。
空爆の直後、基金がたくさん寄せられた。7億円くらい。
何に使うか?水をなんとかすること、これだ!と思った。その前に10年も診療所をやっていたから、信頼関係があった。

意欲は続かない場合もあるが、私の場合、もう条件的に逃れられない。
医療よりも用水路建設のほうに今は夢中になってしまっている。

いろんな人の思惑や状況がこうさせた。
プレッシャーが継続のひとつ。
皆さんの募金だけで今まで20億円以上集まった。
これだけ募金が集まると、よっぽどの悪党でないと逃げ出せない。

(素晴らしいご講演、ありがとうございました!!)





Dr. Tetsu Nakamura’s Public Lecture in Okinawa


“Water for Life in Afghanistan”

 September 7, 2019

Organized by Okinawa Christian Peace Institute, University Consortium in Okinawa



(About Dr. Tetsu Nakamura) Born in 1946, Graduated from Kyushu University School of Medicine, Went to Peshawar, Pakistan to treat leprosy patients in 1984,  Established a clinic for refugees in Afghanistan in 1991, then a hub hospital PMS (Peace Japan Medical Service) in Peshawar 1998, started providing patrol medical treatment in Pakistan mountainous area, constructed as many as 1600 wells in Afghanistan since spring 2002.  He also launched a green land planning in Afghanistan, through self-taught civil engineering and in March 2010, completed the 27 kilometers irrigation canals. There is no time to have any war being so busy with agriculture. The important thing for people is to live. Life itself is important.Awarded the 1st Okinawan Peace Prize



(Lecture Memo by Mari Takenouchi)

I have visited Okinawa a few times.

I started working for medical activities in Peshawar 35 years ago, and currently I have been doing civil engineering work at rivers.

Why does a medical organization have to work on rivers in Afghanistan?

Why does a hospital director have to use heavy machinery?
I will explain these in today's talk.



Afghanistan is not so familiar to Japan.

It is located on the earth's drying belt, 6000 kilometers west of Japan at the west end of the Nepal Himalayas. 7000 m Kinzutsk Mountains are located in Afghanistan, which has 1.7 of the times of land compared to Japan the 80 % the land is high mountain area. A famous proverb says, You can eat without money, but you can't eat without snow.

Out of 20 million population, nearly 90 percent live on self-sufficient agriculture. Snowy mountains are the source of water. "



However, there has recently been a change in the mountains. There is almost no rain, only about 200 mm per year in Jalalabad, which is equivalent to one or two hours of rain in Okinawa.



As long as there are rain falls, there would be rich greenery in this country. Until only about 40 or 50 years  ago, the self-sufficiency rate was 100 percent in this country.

In a multi-ethnic country, different groups lived in different valleys. Local autonomy was thorough.



We have been conducting our activities in Eastern Afghanistan. The ethnicity and language are the same as Pakistan, but now the civil war has been intensified. 100 % of the people are Islam, which connects not only through individuals’ religion but also between regions.

Through the Friday prayer, people interact each other and share their worries to be resolved immediately. Their culture may sound difficult for the Japanese to understand.



The gap between the rich and poor in this country is enormous. Even in Afghanistan, the rich would fly to NY or London to receive medical treatment, even if they are not seriously ill . However, many people die because of lack of money, even without less than a hundred yen. They often have conflicts with foreigners. Foreigners staying in Afghanistan often run away.



We are not trying to make social reforms locally. I'm just trying to save their life. It is strange to judge their cultural/social difference from us is as delayed or advanced. We try not to look at local customs with bias, which is our policy.


In 1982, I made a five- year plan to eradicate leprosy. At that time, the momentum to eradicate leprosy was increasing. I was surprised when I went to the site where I had to build a treatment center, there were only 16 beds for thousands of patients . There were no medical devices. Therefore, we started fundraising activities for Society of Peshawar, which has been the practice till today.



The time when I was transferred to this position was when the civil war began. In 1979, Soviet invasion of Afghanistan started, followed by 9 years of civil war, resulting in the 2 million deaths. 10 percent of the people died, and 600 million people have fled to neighboring countries such as Pakistan and Iran as refugees.



We made a major shift in the medical policy and expanded the medical care to rural areas in Afghanistan. Treating leprosy alone was not enough for people. People cannot be helped only by a specific disease. All the infections disease were there including tuberculosis, malaria, and amoeba dysentery. There was a little prejudice against leprosy locally and it was not a special disease. General medical care should be provided.

I wanted to create a medical model for rural areas.



To go to Nuristan mountain village, it took one week for one-way from Peshawar. The media coverage in those days was only in urban areas at war zones, and foreign newspaper reporters did not visit such kind of areas.



Soon, the Soviet Army withdrew, and the Soviet Union collapsed. After that, we opened our clinics one after another.

The guerrilla group with support from Europe and the United States entered the capital. Kabul was temporarily abandoned. Suppressing this movement, the Taliban administration emerged again and we were relieved. The period during the Soviet ruling was better, and after the withdrawal of the Soviet Union, crimes such as robbery occurred frequently. The clinic was also attacked.



In the summer of 2000, a drought took place. In fact, the villages disappeared in front of the clinic one after another. I saw physically green villages disappearing. According to the WHO report, there are 4 million people on the hunger line and 1 million people being starved. I think that the drought area is still spreading and I thought had an obligation to make an appeal on this situation.



Intestinal infections, dysentery, typhoid and cholera were prevalent among children. The children died one after another. There was no water. Children are weak. Even if one suffers from dysentery, he dies right away. A young mother came to our clinic walking for days. When she was waiting outside, I suddenly heard a cry from the waiting room, where her child passed away-this kind of scene took place as a daily basis. How powerless can medical care be? Food and water are the best medicines for those who are hungry, no matter how much medicine they take, and those who are thirsty. Clean drinking water and ample food are the important ones.



In August 2000, we began to regenerate withered wells. After that, we dug up 1600 wells so that local people could live in the village.



On September 11, 2001, at that time of US President George W. Bush era, simultaneous terrorist attacks took place in NY. Since the next day, Afghanistan was about to be the target of retaliatory bombing just because of harboring al-Qaeda.  Without being attacked, Afghanistan was weakened so much.  How dare they try to drop bombs in such a country? However, our opinion was a minority. I tried to raise money while going back and forth between Japan and Afganistan.



The air strike began in October.  While the capital city’s bombing was to be approached, I witnessed a strange scene. Kabul is high in altitude and cold in winter. Most wealthy citizens evacuate abroad. I thought that more than 10 % of the people who are poor and remained in Afganistan could nt survive the tough winter. We delivered food aid of 1800 tons which would save the lives of 200,000 people in hunger.



Everyone was gnawing on TV watching the war. Like high school baseball and soccer, people who are called as military experts commented untrue stories such that the US is a pinpoint bombing and does not bother ordinary citizens. In fact, girls and children, elderly people, and disabled people were the first victims. There was a possibility that we could also be attacked with a single high-performance bomb, but we were able to provide food safely. I was able to distribute food not only through me but also through the local staff. Later, the Taliban regime collapsed.



Only demagogues of "Taliban, administration of villainy cruelty was defeated," was reported as hoax news. Women in western clothes enjoying freedom were shown on TV . And Afghan was forgotten from the world.



But what actually happened? Although the poppy field disappeared during the Taliban administration, the same poppy field revived with the US military. Western media called it as freedom, but the freedom was such as begging on the streets or for young women becoming prostitutes for foreign troops.



We wanted to save people's lives first. A method of irrigating groundwater called Karez was very difficult, even though the name of Karez in Japanese was "never drying."  Though we dugged the irrigation again and again, Karez went dry after each time with the groundwater veins becoming less.



In 2003, we made a green earth plan with construction of the Mariwaleed canal. I valued one waterway more than 100 clinics. 15 million people were able to live with a 27 km waterway. It's easy to plan, but hard to make. There were only pickaxes and shovels. Some of you may think how about making money first before making waterway. Afghan rural areas are inaccessible to government. Even engineers and foreign organizations would be too afraid to bring materials to these areas.



It is the local people who maintain an irrigation channel and pass it on to their offspring. A major design change was made because we should aim for an irrigation channel that can be created and maintained by local residents. There are few places in Afghanistan where electricity can be used.





We paid attention to the old technology remaining in Japan and Afghanistan. River velocities in Japan and Afghanistan are rapid. Agricultural land is also narrow with valleys and they are similar in terms of irrigation. I decided to use local technology and materials as much as possible. The oblique river band of the Chikugo River made 220 years ago is similar to riverbank in Afghanistan.



All the Afghanistan farmers are skilled stone craftsmen. River bank were made by the local people. Planting willows will give rise to aquatic plants, fish will live, biodiversity is perfect, and maintenance is perfect. The roots of the willow will enter the gap between the stones and the river bank will not break. Supported by the wisdom of people from the past, I made a water wheel because there was no money to buy oil. Foreigners will disappear someday, so it's better to make what you do locally, in your own way.





Water began to reach deserted villages about three years after the start of construction. The deserted village was covered with greenery and revived. Surprisingly, the reconstruction was done quickly and we were surprised. The temperature of Gamberg Desert can become as high as 51 and 52 degrees Celsius. Many people fell down due to heat strokes, but still, everyone worked without any rest. A daily allowance was also given. Their wishes were only two. Eating rice three times a day and live with one’s family in one’s hometown. People became refugees since they could not have these conditions.



10 years ago in 2009, on August 9 or 10, we tested opening of the canal. Watching the water flow, the residents came to me and said. Dr, now we can live. Now we do nt need anything else anymore. This is the truth.



After that, I brought a pine forest, often planted on the Sea of ​​Japan coast line, to Afghanistan. The pine forest may be considered for tourism, but it is originally intended to protect farmlands. A pine forest planted in Afghanistan, covered with a sandstorm, is now 10 meters tall and green. It is now possible to plant rice in the desert. Vegetables, fruits and firewood can also be have been cultivated. As a result, 150,000  refugees came back to the region.



But this is not the end. The problem of global warming has emerged. The reason of the drought can be nothing other than global warming. We should think of food self-sufficiency rather than any war. As it progresses, the nation would be destroyed by drought. Spring rainfall decreased by 30 % and the temperature rose by 1.8 degrees in 60 years .



In Afghanistan, global warming is accelerating at twice the speed. Rain is localized. When temperatures rise sharply, mountain snow causes record floods. After the flood, there will be no snow in the mountains and the river level will drop. As groundwater and flash floods increase, there is no time for water to penetrate, resulting in drought. Water has become incapable of taking in from large rivers.



Irrigation water that is not affected by such climate change must be constructed. The next challenge is research on water intake facilities, water intake weirs that can withstand flooding and drought, adopting a model from a diagonal weir in Asakura City, Fukuoka Prefecture. What the locals have devised is moderate enough not to take in water more than necessary. We have also reproduced the water ways with natural supply.



In the latter half of 35 years, I have been devoted to drought countermeasures. With overwhelming local support, the number of local collaborators increased. There are more than 1 million collaborators, and more than a few hundred people can be called skilled workers.



I opened training center to expand training since last year. In February last year , the Afghan government adopted our method as a standard, and we are making further progress. Despite major droughts and air strikes, the Eastern Revival Plan is almost achieved. Next, we are trying to expand nationwide from this region. Development from the center may not necessarily consider the region. Conversely, it will expand from the region to the whole country.



Finally, if humans and nature do not live together, our future will be dim. The days of relying on fossil fuels, repeated consumption and production, and infinite exploitation from nature are over. Where are we going? It's time to take a big perspective and think about our future. That is not just a problem in Afghanistan.



(This is the end of the lecture. Next, I wrote down the main answers from the question and answer session.)




(Public health and health condition of local people)

After the water came, the children no longer died so easily. Not only intestinal infections, but also resistance to infectious diseases such as malaria increased. Public health education such as washing hands, etc.is provided, but the best rural infrastructure is just water supply. On the other hand, if students are dispatched from Afghanistan to Japan, they will not come back. They stay in developed countries with MRT, CT and other high-tech medical technologies. I don't think that advanced education is always good.



(What do you think of Japan now?)

Japan has similar geographical conditions, but the agricultural villages are not so healthy. Japan has abundant of water, but the people are not so vigorous. What are the causes? Young people do not live in rural areas. Education make young people yearning for more about the glamor of commerce and city-lives than agriculture, and they seek for jobs abandoning father and mother and seek a job. Even in Kabul, the capital city of Afghanistan, there is no job, so people run away to Europe. The terminal phase of such situation can be seen in Japan. Food self-sufficiency rate is only 30 %. You can buy anything if you pay money. I am shocked that see this trend has been increasing and even seems to be a well-perceived trend in the entire world. Now we bring in foreign workers with money. But what do you do when you run out of money? At the time of the defeat, of war, Japanese people also made vegetables in their own gardens. Where did these vitalities of Japanese people go? Isn't it important for Japan to revive agriculture? There is completely a different situation in Japan compared to the Afghan people who are pleased with mere supply of water. Unless we change the system of education and society, I suspect that the society may become a desperate one.



(Future plans)

In Afghanistan, the project became possible because the region was united. I don't think it can be expanded automatically in other areas. Isn't it one way to expand to the adjacent zone first? Our workers themselves are involved. When the central government comes out, most of the plans will not work. Since the officials themselves work under a shift, they do not have responsibility for the area. We must be there for quite a long time, at least continued way for another 20 years. But I can't live forever. Right now, a big job for me is to make a model area of 60 thousand hectares, and I can also be involved in this.



Global warming issue is hopeless. I am not saying that the government or foreign organizations were lazy, but they have all failed. Our project became the only successful and hopeful one. Its significance does not decrease. I want to keep doing this project at least for the next 20 years. Specifically, I want to make the local economy independent. I would like to continue this for another 20 years while completing this program receiving support from Japan .



(About attitude as a doctor)

The doctor always have to think about what the patient thinks about, what is painful, and what he wants. This is the same in Japan and in other nations. Doctors need to understand patients’  feelings. I myself sometimes see a doctor, but some doctors don't understand the patient's requests at all, and I wonder, "Why is this doctor like this?"



We live in over 600,000 people, but now displaced persons cannot be taken as refugees in Pakistan. Our area is the best place regarding security. People who are fighting with guns could not eat and became mercenaries. As a result, the security became worse. It is not uncommon to see some of our workers who used to hold a gun.



(About awareness of changing the region)

Trust is the first step in implementing any plan. We should put importance on trust before any technology.

Political matters make the situation more complicated.

Women's position should be left to local people.

All we do is to save people’s lives, and then leave the matter to the local people.

Afghan is a society where people cannot shake hands with women. It is a society where you can't take even a picture of a woman.

Some people have doubts that our activities do not show any women at all, but that is not the case.

In most rural areas, the most demanding female’s labor is water gathering. During droughts, you have to travel 5 or 6 kilometers daily. So women are the main collaborators of our activities.



Regarding education, the more education permeates in society, the more young people abandon the elderly and run away. We have to think this much.



(Why do you take risks at the expense of your own life and continue your activities so far)

There are many people who are motivated.

However, it can't be done unless the conditions are met.

In my case, I was able to do it smoothly.

Immediately after the air strike, a lot of funds were collected. About 700 million yen.

What can this be used for? Yes, for managing the water supply! I thought. Before that, I had managed a clinic for 10 years, so I had a trusting relationship with the people in Afghanistan.



In some cases, willingness cannot last, but in my case, I can't escape from my condition anymore.

Now, I'm more into the irrigation than into medical care.



The thoughts and situations of various people made my situation like this.

Pressure is one of the conditions for my continuous efforts.

Until now, only through donations, more than 2 billion yen has been gathered.

If this kind of amount of money is gathered, you would not be able to escape from it unless you're a true villain.



(Thank you for the wonderful lecture!)





2019年1月22日火曜日

11 yr old exposed to 100 mSv after Fukushima explosion 福島11歳少女、事故後100mSv被ばく


 
東京新聞より:Tokyo newspaper

東京電力福島第一原発事故の直後、福島県双葉町にいた十一歳の少女が、喉にある甲状腺に推計で一〇〇ミリシーベルト程度の被ばくをしたと報告されていたことが、国の研究機関・放射線医学総合研究所(放医研)の文書から分かった。一〇〇ミリシーベルトは国などの資料で放射線の影響でがんの発症が増加し得る目安として使われてきた。しかし、国はこれまで「一〇〇ミリシーベルトの子どもは確認していない」と発表し、この報告は伏せられていた。 (榊原崇仁)
Immediately after the TEPCO Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant accident, it was reported that an eleven-year-old girl in Futaba-cho, Fukushima Prefecture was exposed to an estimated 100 millisieverts of thyroid in the throat. It was found from the documents of the research institute and the Institute of Radiological Medicine (NIRS). One hundred millisieverts have been used in materials such as national data as a guideline for increasing the incidence of cancer due to the effects of radiation. However, the country has so far said, "We have not confirmed a child of 100 millisieverts," and the report was declined. (Takahito Sakakibara)
 文書は、事故から二カ月後、二〇一一年五月二日の放医研の「朝の対策本部会議メモ」。本紙の情報開示請求で公開された。それによると、会議では、十一歳の少女の実測値が「頸部(けいぶ)5-7万cpm(GMで測定)」と示され、「取り込みが3日前として、甲状腺等価線量で100mSv程度」と報告があった。
The document is the “Morning Countermeasures Headquarters Meeting Memorandum” by NIRS on May 2, 2011, two months after the accident. It was published in a request for information disclosure on this paper. According to the report, the actual measurement value of an 11-year-old girl was shown to be "neck (Keibu) 50,000-70,000 cpm (measured by GM)" at the meeting, and "the thyroid equivalent dose was 100 mSv when the intake was 3 days ago. Degree ”.
 甲状腺は首の部分にあり、放射性ヨウ素が集まりやすい。国や福島県の公表資料には「がんのリスクは一〇〇ミリシーベルト未満で検出困難」「チェルノブイリ事故では一〇〇ミリシーベルト以上でがん発症」と記されている。

The thyroid gland is located in neck, and radioactive iodine can easily be collected. A document released by the government and Fukushima Prefecture states that "the risk of cancer is less than 100 millisieverts, which is difficult to detect." "In the Chernobyl accident, cancer develops at over 100 millisieverts."
 メモや関連文書などによると、測定したのは県職員の放射線技師。県は事故直後から、避難者らの体についた放射性物質を調べ、除染する検査を実施しており、この技師は三月十三~十五日、派遣された同県郡山市の会場で、頭や衣服などの汚染を調べていた。検査機器として「GMサーベイメータ」が使われた。甲状腺の放射性ヨウ素の測定は通常、体内からの放射線を調べやすい「NaIサーベイメータ」を使うが、技師がいた検査会場にはなく、GMで代用したとみられる。
According to memos and related documents, it was the radiologist of the prefecture staff who measured it. Immediately after the accident, the prefecture examined the radioactive substances on the evacuees' bodies and carried out an inspection to decontaminate them,  looking for contamination of my head and clothes. A "GM survey meter" was used as an inspection device. To measure radioactive iodine in the thyroid, a "NaI survey meter", which is easy to check radiation from inside the body, is usually used.
 記録も混乱の中で書き残されなかったが、結果は一一年四月、検査応援のために福島滞在中の徳島大の誉田(ほんだ)栄一教授と佐瀬卓也講師(現・核融合科学研究所准教授)に伝えられたという。
The record was not left unrecorded due to the confusion, but the result was reporeted to Professor Eiichi Honda of the University of Tokushima and the current Associate Professor of Nuclear Fusion Science Institute, Takuya Sase who were staying in Fukushima to support the examinations in April 2011.
 佐瀬氏はサーベイメータで示された汚染の程度から、少女の甲状腺に取り込まれた放射線ヨウ素を「十数キロベクレル相当」と試算し、現地にいた放医研職員に連絡。この試算を基に、会議で「一〇〇ミリシーベルト」が報告されたとみられる。徳島大の二人によると、技師は「少女は爆発があった時、『(原発がある)双葉町にいて友だちと外で遊んでいた』と話していた」という。
Dr. Sase estimated radiation iodine taken into the thyroid gland of the girl as "a dozen kilobecquerels" based on the degree of contamination indicated by the survey meter, and contacted the local NIRS staff. Based on this estimate, it is believed that "100 millisieverts" was reported at the meeting. According to Tokushima University, the engineer said, "When the explosion occurred, the girl said," I was in Futaba (where the nuclear power plant was) playing with friends. "
 政府の原子力災害現地対策本部は一一年三月下旬、NaIを用いて十五歳以下の子どもの被ばく線量を測定し、すべて一〇〇ミリシーベルトの基準を下回ったと発表した。しかし、対象は避難や屋内退避が指示されなかった原発の三十キロ圏外の地域で、調べたのも千八十人のみ。事故当時、双葉町の少女らは、この測定から漏れた可能性が高い。
In late March 2011, the government's Nuclear Emergency Response Headquarters announced that it measured the exposure dose of children under the age of fifteen using NaI, and that it all fell below the standard of 100 millisieverts. However, the target was an area outside the nuclear power plant's thirty kilometers area where evacuation and evacuation were not instructed, and only 1,880 people were examined. At the time of the accident, the girls in Futaba are likely to have missed this measurement.
 放医研はこの値について「対策会議で出た情報を基にその場で簡易的に算出したもの。精密に検討しておらず、公表していない」とコメントしている。
The NIRS commented that this value was "calculated on the spot based on the information provided at the countermeasures meeting. It has not been examined precisely and has not been published."
<放射線医学総合研究所> 第五福竜丸事件を受けて1957年に設立。国の指針類では福島第一原発事故当時、「緊急被ばく医療体制の中心的機関」と位置付けられ、詳細な線量評価を担うほか、関係機関に対する助言や高度専門的な治療を行うと記されていた。所在地は千葉市稲毛区。
<NIRS> Established in 1957 following the 5th Lucky Dragon H-bomb incident. At the time of the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant accident, the national guidelines placed it as the "central institution of the medical system for emergency radiation exposure," which is responsible for detailed dose evaluations, as well as providing advice to relevant institutions and highly specialized treatment. The location is Inage-ku, Chiba.