Dr. Nakamura who dedicated his life for Afgan people.
アフガニスタン人に身を捧げた故・中村哲医師
My English translation follows after my Japanese note.
by Mari Takenouchi
ショックです。2019年12月4日、中村哲医師がアフガニスタンで銃撃され、亡くなられました。
現代日本で最も偉大な人物だと思っています。約3か月前に中村医師が沖縄でされた講演メモとともに(仮英訳付き)、心からのご冥福をお祈りしたいです。
On December 4, Dr. Tetsu Nakamura, who I believe the greatest person in modern Japan, passed away due to gun shots in Afghanistan. I would like to offer my heartfelt prayer with the following lecture memo taken 3 months ago in Okinawa. (temporary English version follows in the latter half.)
中村医師はたまたま、2019年9月7日に沖縄に呼ばれ、ご講演されました。
Dr. Nakamura visited Okinawa to give the following lecture on September 7, 2019.
中村哲さんが来られるということで、久しぶりにパソコン持参で気合を入れて、お話を聞かせてもらいました。 前回このようにパソコンを持ちこみ、このように講演メモを取ったのは、2013年東京に、チェルノブイリの医療活動及び研究における第一人者バンダジェフスキー博士http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.htmlが来た時以来かもです
As Dr. Nakamura was going to come to Okinawa, for the first time after a long time, I brought my PC to take a detailed lecture memo. The last time I did this was when Dr. Bandazhevsky, the No. 1 medical doctor and the scientist after Chernobyl accident, came to Tokyo to give a lecture.
→http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.html
とにかくすごかったです。昨日、アフガニスタンに1600もの井戸を掘ってきた中村哲医師、本当に素晴らしいご講演でした。このような偉大な人物が、素晴らしいスケールの人道活動をしている最中に道半ばで、いとも簡単に理不尽にも撃ち殺されてしまうなんて、本当に残念でなりません。
The lecture by Dr. Nakamura, who made as many as 1600 wells in Afganistan, was truly amazing. It is such a shame that a man of such a great soul was shot to death this.
日常的に今でも起きている各地での戦闘に合わせ、このように理不尽に殺されてしまう被害者をなくすため、全世界で、兵器、爆弾、銃規制(日本で銃規制があるのは非常にありがたいことです)を行うべきだと私は大真面目に思っています。
I sincerely wish that there would be a world with total restriction on weapons including bombs, shells, and guns in the entire world. (It is a nice thing that Japan has a gun control at least, but I think this should be applied in every country in the world and also larger weapons should definitely be banned in the world.)
*********
沖縄県9月7日
講演後に購入した中村哲医師の本。数々の賞を受賞した「すごい本!」です。講演会の帰りに、受付に並んでいた本を見ていたら、アフガンで活動を共にしていたという若い青年が、「いちおし」してくれたのですが、さすが、その価値ある、本当にものすごい本です。(その青年は赤ん坊をだっこしながら受付をしていましたが、今はご自身のお子さんが幼いということで日本にいるようですが、将来、中村医師に何かあったら、アフガンにまた行くと言っていた、とても良い顔をした青年でした。ああいう立派な青年が中村医師の素晴らしい活動を将来引き継いでいくのだろうなあと感じていました。)
by Mari Takenouchi
ショックです。2019年12月4日、中村哲医師がアフガニスタンで銃撃され、亡くなられました。
現代日本で最も偉大な人物だと思っています。約3か月前に中村医師が沖縄でされた講演メモとともに(仮英訳付き)、心からのご冥福をお祈りしたいです。
On December 4, Dr. Tetsu Nakamura, who I believe the greatest person in modern Japan, passed away due to gun shots in Afghanistan. I would like to offer my heartfelt prayer with the following lecture memo taken 3 months ago in Okinawa. (temporary English version follows in the latter half.)
中村医師はたまたま、2019年9月7日に沖縄に呼ばれ、ご講演されました。
Dr. Nakamura visited Okinawa to give the following lecture on September 7, 2019.
中村哲さんが来られるということで、久しぶりにパソコン持参で気合を入れて、お話を聞かせてもらいました。 前回このようにパソコンを持ちこみ、このように講演メモを取ったのは、2013年東京に、チェルノブイリの医療活動及び研究における第一人者バンダジェフスキー博士http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.htmlが来た時以来かもです
As Dr. Nakamura was going to come to Okinawa, for the first time after a long time, I brought my PC to take a detailed lecture memo. The last time I did this was when Dr. Bandazhevsky, the No. 1 medical doctor and the scientist after Chernobyl accident, came to Tokyo to give a lecture.
→http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.html
とにかくすごかったです。昨日、アフガニスタンに1600もの井戸を掘ってきた中村哲医師、本当に素晴らしいご講演でした。このような偉大な人物が、素晴らしいスケールの人道活動をしている最中に道半ばで、いとも簡単に理不尽にも撃ち殺されてしまうなんて、本当に残念でなりません。
The lecture by Dr. Nakamura, who made as many as 1600 wells in Afganistan, was truly amazing. It is such a shame that a man of such a great soul was shot to death this.
日常的に今でも起きている各地での戦闘に合わせ、このように理不尽に殺されてしまう被害者をなくすため、全世界で、兵器、爆弾、銃規制(日本で銃規制があるのは非常にありがたいことです)を行うべきだと私は大真面目に思っています。
I sincerely wish that there would be a world with total restriction on weapons including bombs, shells, and guns in the entire world. (It is a nice thing that Japan has a gun control at least, but I think this should be applied in every country in the world and also larger weapons should definitely be banned in the world.)
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沖縄県9月7日
講演後に購入した中村哲医師の本。数々の賞を受賞した「すごい本!」です。講演会の帰りに、受付に並んでいた本を見ていたら、アフガンで活動を共にしていたという若い青年が、「いちおし」してくれたのですが、さすが、その価値ある、本当にものすごい本です。(その青年は赤ん坊をだっこしながら受付をしていましたが、今はご自身のお子さんが幼いということで日本にいるようですが、将来、中村医師に何かあったら、アフガンにまた行くと言っていた、とても良い顔をした青年でした。ああいう立派な青年が中村医師の素晴らしい活動を将来引き継いでいくのだろうなあと感じていました。)
9月7日 「アフガニスタンに命の水を」中村哲医師
(沖縄キリスト教平和総合研究所、大学コンソーシアム沖縄 県民向け公開講座)
(沖縄キリスト教平和総合研究所、大学コンソーシアム沖縄 県民向け公開講座)
(紹介)1946年生まれ、九州大学医学部卒業 1984年ハンセン病患者の治療のため、パキスタンのペシャワールへ 91年アフガニスタンに難民のための診療所開設 98年 基地病院PMS(ピースジャパン・メディカル・サービス)をペシャワールに設立、パキスタン山岳地で巡回医療、井戸の数1600、2002年春からアフガンにおいて緑の大地計画、土木工学を独学、2010年3月、27キロの用水路を完成。「農業で忙しくして戦争をしている暇はない。大事なことは生きることです。命こそ大切です。」第一回沖縄平和賞受賞
(中村哲医師ご講演、竹野内のメモ)
沖縄には、2,3回来ている。
35年前にペシャワールに赴任して医療活動、現在は川の中で河川工事。
なぜ医療団体がアフガニスタンで河川工事をしなければならないのか。
病院の院長が重機を使わねばならないのはなぜか?
アフガニスタンは日本にとってなじみはうすい。
日本から西に6000キロ、地球の乾燥ベルト上にある。ネパールのヒマラヤ山脈7000メートルの西端が、キンズーツク山脈で、アフガニスタン。日本の1.7倍の国土の8割以上が高山。有名なことわざに「金がなくても食べられるが、雪がなければ食べていけない。」
2000万人の9割近くが自給自足の農業。雪山は水の源。
最近山に異変が起きている。雨はほとんど降らず、ジャララバードでは年間200ミリくらい。沖縄の1,2時間程度の降雨量が年間降雨量だ。
水さえ降れば、植物は豊かだ。4,50年前まで自給率100パーセントの国であった。
多民族国家で谷ごとに、異なった集団が住んでいた。地方自治が徹底している。
私たちはアフガン東部で活動している。パキスタンと民族も言葉も同じだが、今は内乱が激しく、主にアフガニスタンで活動している。国民の100%がイスラム教で、個人の宗教としてだけでなく、地域と地域を結ぶものとなっている。
金曜礼拝は必ずし、人々が交流、もめごとはすぐ解決する。日本人にはわかりにくいだろう。
国の貧富の差が激しい。アフガニスタンでも金持ちは、たいした病気でなくとも、NYやロンドンにすぐに飛んで治療を受ける。しかし多くの人が数十円というお金がなくて死んでいく。外国人とはよくもめる。よく外国人が逃げて行ってしまう。
私たちは現地の社会改革はしようとしていない。命を守ろうとしているだけだ。ただ違いを遅れているとか進んでいるとか、善悪で裁くのはおかしい。現地の風習や習慣は、私たちがおかしな目で見ないこと。それが方針だ。
82年前に、はんせん病根絶5か年計画。当時はハンセン病・らい病の根絶への機運が高まった。現地に行ってびっくりしたのは、治療センターを建設するはずであったのが、千数百名の患者に対し、16床のベッドしかない。医療器具もない。そこでペシャワール会の募金活動を活発にするようになり、現在に至る。
赴任した当時は内戦が始まったときであった。1979年ソ連軍のアフガン侵攻、9年間の内乱、200万人もの死亡。国民の10パーセントが死亡、600万人が難民としてパキスタンやイランなど隣国に逃れた。
医療方針の大転換をし、アフガンの農村部に医療拡大。ハンセン病だけでは成り立たない。特定の病気だけでは仕方ない。結核、マラリア、アメーバ赤痢などあらゆる感染症がある。現地では、ハンセン病に対する偏見が少なく、特別な病気でない。一般診療をすべきである。
農村地域の医療モデルを作りたかったのである。
ヌーリスタン山村には、ペシャワールから片道1週間。取材対象は都市部か戦争場面ばかりで、外国人の新聞記者は来ないような場所で診療。
そのうちソ連軍が撤退、まもなくソ連が崩壊。その後、次々と診療所を開設。
欧米から支援を受けたゲリラグループが首都に進出。カブールが一時廃墟。これを抑えてタリバン政権が台頭し、私たちはホッとした。ソ連が支配していた時期のほうが治安が良く、ソ連撤退後は強盗などの犯罪が多発。診療所も実際襲撃された。
2000年夏、大干ばつという異変が起きた。実際に診療所の目の前から村々が消えていった。物理的に緑の村落が消滅していくのを見た。WHO報告によると飢餓線上が400万人、餓死線上が100万人。今も干ばつの地域は広がりつつあり、私には訴える義務がある、と思った。
子供の腸管感染症、赤痢、チフス、コレラが大流行した。子供が次々と死んだ。水がない。子供が衰弱。赤痢にかかっても、ころりと死んでいった。若いお母さんが何日もかけて我々の診療所に来た。外来に待っていても、待合室から突然叫び声が聞こえ、子供の息が絶えてしまうことが日常的に起こっていた。医療というものはいかに無力か。いくら薬をもっていってもおなかの減った人、のどの乾いた人には食料や水が最高の薬なのである。清潔な飲料水と十分な食料が大事なのだ。
2000年8月から枯れ井戸を再生し始めた。その後1600もの井戸を掘り、現地の人々が村で暮らせるようにした。
2001年9月11日、当時、米ブッシュ大統領の時代、NYで同時多発テロが発生。翌日から実行犯とみられていたアルカイダをかくまっていた、というだけで、アフガンに報復爆撃が始まろうとしていた。ほっといていても、アフガニスタンは息も絶え絶え。そこに爆弾を落とすのか。といっても私たちの意見は少数意見。私は日本と現地を行き来しながら、募金活動をした。
10月から空爆開始、首都爆撃が間近に迫る中、異様な光景を目撃した。カブールは標高が高く、冬は寒い。裕福な市民はほとんど国外へ避難。貧しい残った人々は1割以上、生きて冬は越せないだろう、と思った。私たちは1800トンという20万以上の人々が飢えない量を届けた。
皆がTVをかじりついて戦争を見ていた。高校野球やサッカーを見るように、軍事評論家といわれる人々が「米はピンポイント爆弾で一般市民には迷惑をかけていない」などと真実でないことを平気で言っている。実際は女子供、年寄、体の不自由な人が真っ先に犠牲になっていた。一発の高性能爆弾で私たち20名もやられる可能性もあったが、無事、食料を提供できた。私のみではなく、職員らの手で、人々への食糧配給ができたのである。その後タリバン政権は崩壊した。
「極悪非道のタリバン政権」を打ち破った、という嘘ばかりがデマ報道されていた。自由を享受し、ブルカを脱いだ女性たちの姿がTVに映っていた。そしてアフガンは世界から忘れ去られていった。
実際は何が起きていたか。タリバン政権時代にケシ畑はなくなっていたのが、米軍とともにケシ畑が復活した。自由といっても道端で乞食をする自由。若い女性が外国軍に売春をする自由といったものだった。
私たちはまずは人々の命を助けたかった。カレーズという地下水を灌漑する方法。名前はカレーズでも枯れていく。掘っては枯れ、掘っては枯れ。地下水脈そのものが少なくなっていった。
2003年、緑の大地計画を立てた。マリワリード用水路の建設。100の診療所よりも一本の水路。27キロの水路で15万人が生活できた。計画立てるのは簡単だが、作るのは大変。つるはしとシャベルしかない。お金がたまってから作るのはどうか?と考えるだろう。アフガンの農村部には政府の手が行き届かない。物資も技術者、外国団体が怖がってこない。
用水路を維持して子孫に伝えるのは地元の人たちだ。地元の人々の手で作り、維持できる用水路を目指すべきということで、大幅な設計変更ができた。アフガンの現地で電気が使える場所はほとんどない。
日本とアフガンに残っている昔からの技術に注目した。日本とアフガンの河川は急流。農業の土地も谷などで狭い。灌漑をする点で似ているはず。できるだけ現地の技術と資材を使うことにした。220年前に作られた筑後川の斜め堰など。アフガンにも似た設備がある。
アフガンの農民はみな、熟練した石職人。川の堰が現地の人で作れた。柳を植えると水草も生え、魚が住み、生物多様性に申し分なく、メンテナンスも申し分ない。柳の根っこが石の隙間に入って川の堰が壊れない。昔の人々の知恵に支えられた。石油を買う金がないから水車を作った。外国人はいつかいなくなるので、現地で作るものは自分たちで、自分たちのやり方で作るのが良いのだ。
着工から3年くらいで砂漠化した村々に水が届き始めた。砂漠化した村が緑で覆われ、復興していった。案外復興が早くて我々自身がびっくりした。ガンベリ砂漠は摂氏51度や52度にもなる。熱中症で倒れる人が続出した。誰も手を休めず作業。日当も出した。彼らの願いはたったふたつ。一日3回ご飯を食べること、そして、ふるさとに家族とともに住めること。それがかなわず、難民化した人々。
10年前の2009年8月9日か10日に用水路の試験開通テストをした。水が流れるのを見て、住民らが私のもとに来て言った。「Dr、これで私たちは生きていける。もうこれで何もいらない。」これが真実なのである。
その後、日本海側によく植えてある松林をアフガニスタンにも持ってきた。松林は観光用と思われているかもしれないが、もともと農地を守るためのもの。砂嵐をふせぐ、アフガンに植えた松林は、今は10メートルとなって緑の地だ。砂漠では田植えもできるようになった。野菜、果物、まきも取れる。15万人の難民化していた人々が戻ってきた。
ところがこれで終わりでない。温暖化の問題が出てきている。干ばつは温暖化以外に考えられない。戦よりも食糧自給。進行すると干ばつで滅びる。春の降雨量30%減少。60年で1.8度上昇。
アフガンは内陸部で二倍の速度で温暖化が加速している。雨が局在化して降っている。気温が急激に上がると山の雪により、記録的な洪水が起きる。洪水の後は、山の雪がなくなるため、川の水位が低下する。地下水も、鉄砲水は増えても、水が浸透する時間がないので、結果干ばつとなってしまう。大きな川からも水が取り込めない状態になってきた。
このような気候変動に影響を受けない灌漑用水を建設をしなければなりない。次の課題は取水設備の研究、洪水にも渇水にも耐える取水堰。福岡県朝倉市の斜め堰をモデルにした。地元の人々が工夫したものは、水を必要以上に余計にとりこまない、ほどほどのものである。めぐみに応じた水の取り組み方法を我々も再現した。
35年の後半は干ばつ対策に明け暮れてきた。そして圧倒的な地域の支持を得て地域の協力者が増えた。協力者の数はのべ100万人以上、数百人以上が我々とともにいる熟練工といってよい人々だ。
昨年度から訓練を広げる訓練所を開講。昨年2月にアフガン政府も、私たちの方法を基準として取り入れ、私たちも、さらに前進している。大干ばつ、空爆にもかかわらず、東部復活計画がほぼ達成。次にはこの地域から全国展開しようとしている。中央からの展開は地域を必ずしも考慮しないこともある。逆に地域から全国へ展開していくのだ。
最後に、人間と自然が折り合って生きなければ、我々の将来は暗い。化石燃料に頼って、消費と生産を繰り返し、自然から無限に搾取する時代は終わった。私たちはどこに行こうとしているのか。大きな視点で眺めて、自ら自分の将来を考える時がきた。ことはアフガニスタンだけの問題ではない。
(以上で、ご講演終わり。次は質疑応答から主だったご回答をメモしました)
(現地の人々の公衆衛生や健康状態について)
水が来てから子供がころりと死ななくなった。腸管感染症だけでなく、マラリアなどに対しても抵抗力が高まり、病気で死ななくなった。手を洗うなど、公衆衛生教育もしているが、田舎のインフラはとにかく水に尽きる。一方、アフガンから留学生を日本に送ると戻ってこなくなる。MRTやCTその他のハイテク技術のある先進国にとどまってしまうのだ。教育というのも、進んでいればなんでもよいということではないと思う。
(日本の今をどう思うか)
地理条件が似ている日本だが、農村に元気がない。日本は水はいくらでもあるのに、元気がない。どんな原因があるのか。若い人が農村に居つかない。教育によって、農業よりも商業や都市の華やかなものにあこがれる。お父さんお母さんを捨てて、職を求める。アフガンでも、首都カブールでさえ職がないので、ヨーロッパに逃げていく。その結末が日本だ。食料自給率が30パーセント。金出せばなんでも買える。そういう傾向が増えていて、それが世の中のまっとうな流れのように思われていることに、私もショックを受けている。今は外国人労働者もお金で連れてくる。でもお金がなくなったらどうするのか?敗戦当時、日本人も庭に野菜を作っていたが、その元気はどこに行ったのか?日本中が農業を復興させるのが大事になるのでないのか。アフガンの人々の水を持ってきて喜ぶ状態とは全く違う状態が日本にある。教育も社会も変えないととんでもないことになるのではないか。
(今後の計画について)
アフガンでは今まで地域が一丸になっていたからできた。よその地域でマニュアル的に広げることはできないと思う。まずは隣接地帯に拡大するのが一つのやり方ではないか?我々の作業員自身がかかわれる。中央政府が出てくると大体の計画がダメになる。役人そのものが交代制なので、その地域に対して責任感がない。相当長い間、我々自身がいなければならない。20年は継続したい。ただ私はずっと生きていけるわけではない。今現在は6万ヘクタールのモデル地域を作るのが、大きな仕事で、これには自分も関われる。
温暖化は絶望的だ。政府や外国団体が怠けていたとは思わないが、でもことごとく失敗してきた。私たちの事業は唯一成功し、希望となっている。その意義は減らない。今後20年は最低やっていきたい。具体的には、現地の経済も自活できるようにしたい。このプログラムも完成させつつ、日本の支援も受けつつ、20年は続けたい。
(医者としての心構えについて)
医者として常に考えていなければいけないのは、患者が何を考え、何が苦しいのか、どうしてほしいのかをくみ取る医療関係者でなければならない。これは海外にかかわらず、日本国内も同じ。相手の気持ちがわかること。聞くことができる人。私自身も医者にかかることがあるが、患者の要求を全く理解せず、「なんだろう、この医者は?」と思うことがある。
私たちの場所は、60万人以上住んでいるが、今パキスタンに避難民受け入れができないので、うちの場所に来ている。うちの地域は治安は最も良い場所だ。銃を握って戦っている人々は食べられなくて、傭兵になっている。そのために治安が悪くなる。うちの作業員の中にも銃を握っていた人も珍しくない。
(地域を変えるという意識について)
計画を実行するには、まずは信頼が最初。技術より始めに信頼。
政治的なことはややこしくする。
女性の立場云々は、現地の人に任せるべきだ。
私たちがやるのは命を守ることのみ、それからは現地の人に任せる。
アフガンは女性と握手もできない社会。本来ばちばち女性の写真も撮れない社会だ。
私たちの活動に女性が全く写真で出てこないと疑問を持つ人がいるが、そうではないのだ。
だいたい農村では、一番厳しい女性の労働は、水くみ。干ばつの時は毎日5,6キロを往復しなければならない。だから我々の活動の一番の協力者は女性だ。
教育についてだが、教育が浸透すればするほど、若い人が年寄を捨てて逃げていく。ここまで考えなければならない。
(自分の生活を犠牲にして危険を冒し、なぜここまで活動を続けられるのか)
意欲がある人はたくさんある。
ただ条件がそろわないとできない。
自分の場合は、すんなりとできた。
空爆の直後、基金がたくさん寄せられた。7億円くらい。
何に使うか?水をなんとかすること、これだ!と思った。その前に10年も診療所をやっていたから、信頼関係があった。
意欲は続かない場合もあるが、私の場合、もう条件的に逃れられない。
医療よりも用水路建設のほうに今は夢中になってしまっている。
いろんな人の思惑や状況がこうさせた。
プレッシャーが継続のひとつ。
皆さんの募金だけで今まで20億円以上集まった。
これだけ募金が集まると、よっぽどの悪党でないと逃げ出せない。
(素晴らしいご講演、ありがとうございました!!)
Dr.
Tetsu Nakamura’s Public Lecture in Okinawa
“Water for Life in Afghanistan”
September 7, 2019
Organized
by Okinawa Christian Peace Institute, University Consortium in Okinawa
(About Dr. Tetsu Nakamura)
Born in 1946,
Graduated from Kyushu
University School of Medicine, Went to Peshawar, Pakistan to treat leprosy patients in 1984, Established
a clinic for refugees in Afghanistan in 1991, then a hub hospital PMS (Peace Japan Medical Service) in Peshawar 1998, started providing patrol medical treatment
in Pakistan mountainous area, constructed as many as 1600 wells in Afghanistan since spring 2002. He also launched a green land planning in Afghanistan, through
self-taught civil engineering and in March 2010, completed the 27 kilometers irrigation
canals. “There is no
time to have any war being so busy with agriculture. The important thing for people is to
live. Life itself is important.” Awarded the 1st
Okinawan Peace Prize
(Lecture Memo by Mari Takenouchi)
I have visited Okinawa
a few times.
I started working for
medical activities in Peshawar 35 years ago, and currently I have been doing civil
engineering work at rivers.
Why does a medical
organization have to work on rivers in Afghanistan?
Why does a hospital
director have to use heavy machinery?
I will explain these in today's talk.
I will explain these in today's talk.
Afghanistan is not
so familiar to Japan.
It is located on the
earth's drying belt, 6000 kilometers west of Japan at the west end of the Nepal
Himalayas. 7000
m Kinzutsk Mountains are
located in Afghanistan, which has 1.7 of the times of land compared to Japan the 80 % the land is high mountain area. A famous
proverb says, “You can
eat without money, but you can't eat without snow.
Out
of 20 million population, nearly
90 percent live on self-sufficient agriculture. Snowy mountains are the source
of water. "
However, there has
recently been a change in the mountains. There is almost no rain, only about 200 mm per year in Jalalabad, which is
equivalent to one or two hours of rain in Okinawa.
As long as there are rain
falls, there would be rich greenery in this country. Until only about 40 or 50 years ago, the self-sufficiency rate was 100 percent in this country.
In a multi-ethnic
country, different groups lived in different valleys. Local autonomy was
thorough.
We have been
conducting our activities in Eastern Afghanistan. The ethnicity and language are
the same as Pakistan, but now the civil war has been intensified. 100 % of the people are Islam, which connects
not only through individuals’ religion but also between regions.
Through the Friday prayer,
people interact each other and share their worries to be resolved immediately. Their
culture may sound difficult for the Japanese to understand.
The gap between the rich
and poor in this country is enormous. Even in Afghanistan, the rich would fly to NY or London to receive medical treatment,
even if they are not seriously ill . However, many people die because of lack of money, even
without less than a hundred yen. They often have conflicts with foreigners. Foreigners staying
in Afghanistan often run away.
We are not trying to
make social reforms locally. I'm just trying to save their life. It is strange to
judge their cultural/social difference from us is as delayed or advanced. We try
not to look at local customs with bias, which is our policy.
In
1982, I made a five- year plan to eradicate leprosy. At that
time, the momentum to eradicate leprosy was increasing. I was surprised when I
went to the site where I had to build a treatment center, there were only 16 beds for thousands of patients . There were
no medical devices. Therefore, we started fundraising activities for Society of
Peshawar, which has been the practice till today.
The time when I was
transferred to this position was when the civil war began. In 1979, Soviet invasion of Afghanistan started,
followed by 9
years of civil war, resulting
in the 2
million deaths. 10 percent of the people died, and 600 million people have fled to neighboring
countries such as Pakistan and Iran as refugees.
We made a major
shift in the medical policy and expanded the medical care to rural areas in
Afghanistan. Treating leprosy alone was not enough for people. People cannot be helped
only by a specific disease. All the infections disease were there including
tuberculosis, malaria, and amoeba dysentery. There was a little prejudice
against leprosy locally and it was not a special disease. General medical care
should be provided.
I wanted to create a
medical model for rural areas.
To go to Nuristan
mountain village, it took one week for one-way from Peshawar. The media
coverage in those days was only in urban areas at war zones, and foreign
newspaper reporters did not visit such kind of areas.
Soon, the Soviet
Army withdrew, and the Soviet Union collapsed. After that, we opened our clinics
one after another.
The guerrilla group
with support from Europe and the United States entered the capital. Kabul was
temporarily abandoned. Suppressing this movement, the Taliban administration emerged
again and we were relieved. The period during the Soviet ruling was better, and
after the withdrawal of the Soviet Union, crimes such as robbery occurred frequently.
The clinic was also attacked.
In the summer of 2000, a drought took place. In fact, the
villages disappeared in front of the clinic one after another. I saw physically
green villages disappearing. According to the WHO report, there are 4 million people on the hunger line and 1 million people being starved. I think that
the drought area is still spreading and I thought had an obligation to make an
appeal on this situation.
Intestinal
infections, dysentery, typhoid and cholera were prevalent among children. The
children died one after another. There was no water. Children are weak. Even if
one suffers from dysentery, he dies right away. A young mother came to our
clinic walking for days. When she was waiting outside, I suddenly heard a cry
from the waiting room, where her child passed away-this kind of scene took
place as a daily basis. How powerless can medical care be? Food and water are
the best medicines for those who are hungry, no matter how much medicine they
take, and those who are thirsty. Clean drinking water and ample food are the important
ones.
In August
2000, we began to regenerate
withered wells. After that, we dug up 1600 wells so that local people could live in the village.
On
September 11, 2001, at that
time of US President George W. Bush era, simultaneous terrorist attacks took place in NY. Since
the next day, Afghanistan was about to be the target of retaliatory bombing
just because of harboring al-Qaeda.
Without being attacked, Afghanistan was weakened so much. How dare they try to drop bombs in such a
country? However, our opinion was a minority. I tried to raise money while going back
and forth between Japan and Afganistan.
The
air strike began in October. While the capital city’s bombing was to be approached, I witnessed a
strange scene. Kabul is high in altitude and cold in winter. Most wealthy
citizens evacuate abroad. I thought that more than 10 % of the people who are poor and remained in
Afganistan could n’t
survive the tough winter. We delivered food aid of 1800
tons which would save the lives of 200,000 people in hunger.
Everyone was gnawing
on TV
watching the war. Like high
school baseball and soccer, people who are called as military experts commented
untrue stories such that the US is a pinpoint bombing and does not bother ordinary
citizens. In fact, girls and children, elderly people, and disabled people were
the first victims. There was a possibility that we could also be attacked with
a single high-performance bomb, but we were able to provide food safely. I was
able to distribute food not only through me but also through the local staff.
Later, the Taliban regime collapsed.
Only demagogues of "Taliban,
administration of villainy cruelty was defeated," was reported as hoax
news. Women in western clothes enjoying freedom were shown on TV . And Afghan was forgotten from the world.
But what actually
happened? Although the poppy field disappeared during the Taliban
administration, the same poppy field revived with the US military. Western
media called it as freedom, but the freedom was such as begging on the streets
or for young women becoming prostitutes for foreign troops.
We
wanted to save
people's lives first. A method of irrigating groundwater called Karez
was very
difficult, even though the name of Karez in Japanese was "never
drying." Though we dugged the irrigation again and again, Karez went
dry after each time with the groundwater veins becoming less.
In
2003, we made a green earth
plan with construction of the Mariwaleed canal. I valued one waterway more than
100
clinics. 15 million
people were able to live with a 27
km waterway. It's easy to plan, but hard to make. There were only
pickaxes and
shovels. Some of you may think how about making money first before
making waterway. Afghan rural areas are inaccessible to government. Even
engineers
and foreign organizations would be too afraid to bring materials to
these areas.
It is the local
people who maintain an irrigation channel and pass it on to their offspring. A
major design change was made because we should aim for an irrigation channel
that can be created and maintained by local residents. There are few places in
Afghanistan where electricity can be used.
We paid attention to
the old technology remaining in Japan and Afghanistan. River velocities in
Japan and Afghanistan are rapid. Agricultural land is also narrow with valleys
and they are similar in terms of irrigation. I decided to use local technology
and materials as much as possible. The oblique river band of the Chikugo River
made 220
years ago is similar to riverbank
in Afghanistan.
All the Afghanistan
farmers are skilled stone craftsmen. River bank were made by the local people.
Planting willows will give rise to aquatic plants, fish will live, biodiversity
is perfect, and maintenance is perfect. The roots of the willow will enter the
gap between the stones and the river bank will not break. Supported by the
wisdom of people from the past, I made a water wheel because there was no money
to buy oil. Foreigners will disappear someday, so it's better to make what you
do locally, in your own way.
Water began to reach
deserted villages about three years after the start of construction. The deserted
village was covered with greenery and revived. Surprisingly, the reconstruction
was done quickly and we were surprised. The temperature of Gamberg Desert can
become as high as 51 and
52
degrees Celsius. Many people
fell down due to heat strokes, but still, everyone worked without any rest. A
daily allowance was also given. Their wishes were only two. Eating rice three times a day and live with one’s family in one’s
hometown. People became refugees since they could not have these conditions.
10
years ago in 2009,
on August 9 or 10, we
tested opening of the canal.
Watching the water flow, the residents came to me and said. “ Dr, now we can live. Now we do n’t need anything else anymore.” This is the truth.
After that, I
brought a pine forest, often planted on the Sea of Japan coast line, to Afghanistan. The pine forest may be
considered for tourism, but it is originally intended to protect farmlands. A
pine forest planted in Afghanistan, covered with a sandstorm, is now
10 meters tall and green. It is now possible to plant rice in the desert. Vegetables,
fruits and firewood can also be have been cultivated. As a result, 150,000 refugees came back to the region.
But
this is not the
end. The problem of global warming has emerged. The reason of the
drought can be nothing other
than global warming. We should think of food self-sufficiency rather
than any war. As it progresses, the nation would be destroyed by
drought. Spring rainfall decreased by 30 % and the temperature rose by 1.8 degrees in 60 years .
In Afghanistan,
global warming is accelerating at twice the speed. Rain is localized. When
temperatures rise sharply, mountain snow causes record floods. After the flood,
there will be no snow in the mountains and the river level will drop. As
groundwater and flash floods increase, there is no time for water to penetrate,
resulting in drought. Water has become incapable of taking in from large
rivers.
Irrigation water
that is not affected by such climate change must be constructed. The next
challenge is research on water intake facilities, water intake weirs that can
withstand flooding and drought, adopting a model from a diagonal weir in Asakura City,
Fukuoka Prefecture. What the locals have devised is moderate enough not to take
in water more than necessary. We have also reproduced the water ways with natural supply.
In the latter half
of 35
years, I have been devoted to
drought countermeasures. With overwhelming local support, the number of local
collaborators increased. There are more than 1 million collaborators, and more than a few
hundred people can be called skilled workers.
I opened training
center to expand training since last year. In February last year , the Afghan government adopted
our method as a standard, and we are making further progress. Despite major
droughts and air strikes, the Eastern Revival Plan is almost achieved. Next, we
are trying to expand nationwide from this region. Development from the center
may not necessarily consider the region. Conversely, it will expand from the
region to the whole country.
Finally, if humans
and nature do not live together, our future will be dim. The days of relying
on fossil fuels, repeated consumption and production, and infinite exploitation
from nature are over. Where are we going? It's time to take a big perspective
and think about our future. That is not just a problem in Afghanistan.
(This is the end of
the lecture. Next, I wrote down the main answers from the question and answer
session.)
(Public health and health
condition of local people)
After the water
came, the children no longer died so easily. Not only intestinal infections,
but also resistance to infectious diseases such as malaria increased. Public
health education such as washing hands, etc.is provided, but the best rural
infrastructure is just water supply. On the other hand, if students are
dispatched from Afghanistan to Japan, they will not come back. They stay in
developed countries with MRT, CT and other high-tech medical technologies. I don't think
that advanced education is always good.
(What do you think
of Japan now?)
Japan has similar
geographical conditions, but the agricultural villages are not so healthy.
Japan has abundant of water, but the people are not so vigorous. What are the
causes? Young people do not live in rural areas. Education make young people yearning
for more about the glamor of commerce and city-lives than agriculture, and they
seek for jobs abandoning father and mother and seek a job. Even in Kabul, the
capital city of Afghanistan, there is no job, so people run away to Europe. The
terminal phase of such situation can be seen in Japan. Food self-sufficiency
rate is only 30
%. You can buy anything if you
pay money. I am shocked that see this trend has been increasing and even seems
to be a well-perceived trend in the entire world. Now we bring in foreign
workers with money. But what do you do when you run out of money? At the time
of the defeat, of war, Japanese people also made vegetables in their own gardens.
Where did these vitalities of Japanese people go? Isn't it important for Japan
to revive agriculture? There is completely a different situation in Japan compared
to the Afghan people who are pleased with mere supply of water. Unless we
change the system of education and society, I suspect that the society may
become a desperate one.
(Future plans)
In Afghanistan, the
project became possible because the region was united. I don't think it can be
expanded automatically in other areas. Isn't it one way to expand to the
adjacent zone first? Our workers themselves are involved. When the central
government comes out, most of the plans will not work. Since the officials
themselves work under a shift, they do not have responsibility for the area. We
must be there for quite a long time, at least continued way for another 20 years. But I can't live forever. Right now,
a big job for me is to make a model area of 60 thousand hectares, and I can also
be involved in this.
Global warming issue
is hopeless. I am not saying that the government or foreign organizations were
lazy, but they have all failed. Our project became the only successful and
hopeful one. Its significance does not decrease. I want to keep doing this
project at least for the next 20 years. Specifically, I want to make the local economy
independent. I would like to continue this for another 20 years while completing this program receiving
support from Japan .
(About attitude
as a doctor)
The doctor always have
to think about what the patient thinks about, what is painful, and what he
wants. This is the same in Japan and in other nations. Doctors need to
understand patients’ feelings. I myself sometimes
see a doctor, but some doctors don't understand the patient's requests at all,
and I wonder, "Why is this doctor like this?"
We live in over 600,000
people, but now displaced
persons cannot be taken as refugees in Pakistan. Our area is the best place regarding
security. People who are fighting with guns could not eat and became
mercenaries. As a result, the security became worse. It is not uncommon to see some
of our workers who used to hold a gun.
(About awareness of
changing the region)
Trust is the first
step in implementing any plan. We should put importance on trust before any technology.
Political matters make
the situation more complicated.
Women's position
should be left to local people.
All we do is to save
people’s lives, and then leave the matter to the local people.
Afghan is a society where
people cannot shake hands with women. It is a society where you can't take even
a picture of a woman.
Some people have
doubts that our activities do not show any women at all, but that is not the
case.
In most rural areas,
the most demanding female’s labor is water gathering. During droughts, you have
to travel 5
or 6 kilometers daily. So women are the main collaborators
of our activities.
Regarding education,
the more education permeates in society, the more young people abandon the
elderly and run away. We have to think this much.
(Why do you take
risks at the expense of your own life and continue your activities so far)
There are many
people who are motivated.
However, it can't be
done unless the conditions are met.
In my case, I was
able to do it smoothly.
Immediately after
the air strike, a lot of funds were collected. About 700 million yen.
What can this be
used for? Yes, for managing the water supply! I thought. Before that, I had managed
a clinic for 10
years, so I had a trusting relationship
with the people in Afghanistan.
In some cases, willingness
cannot last, but in my case, I can't escape from my condition anymore.
Now, I'm more into
the irrigation than into medical care.
The thoughts and
situations of various people made my situation like this.
Pressure is one of
the conditions for my continuous efforts.
Until now, only
through donations, more than 2 billion yen has been gathered.
If this kind of amount
of money is gathered, you would not be able to escape from it unless you're a
true villain.
(Thank you for the
wonderful lecture!)