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2021年3月10日水曜日

「放射線被曝の歴史」(中川保雄著)より抜粋

 

 

1レム=10mSv

 

序にかえて

 

  原発開発に伴う被曝は人類を死滅させるかもしれない恐るべき危険性を持つものである。

 

  被被ばくの危険性について歴史的にどのように認識され、どのように対処されてきたのかを体系的に扱った書物はいまだになく、あるとしたら放射線被曝を管理する立場からかかれたものばかりである。つまり原子力発電の推進あるいは容認の立場から記述されている。

 

  核戦争ではなく原発・核燃料サイクル施設の重大事故で、人類と地球上の生物が滅ぼされることがないと誰が断言できようか?

  原原発と核燃料サイクルによる放射能汚染は、人類と地球上の全ての生物にとって、死活の脅威となっている地球環境問題の筆頭に挙げなければならない。

  広島島長崎の惨劇を経験して放射能の怖さを熟知していると思われているがゆえに、日本の原発推進策は世界のその動きを大いに鼓舞する役割を果たしている。

  1986年、米議会において、マンハッタン計画中に放射線を人体に浴びせる人体実験が行なわれていた事が暴露された。

 

  広島長崎を調査したのは、日本では「日米合同調査団」と称される。しかしアメリカの公式文書では「アメリカ軍合同調査委員会」と称される。調査を行なった主体についてすら日本で正しく理解されているとはいえない。

 

  アメリカ軍による原爆被害の隠蔽や過小評価に、日本の代表的研究者たちも同意を与え続けてきた。

 

  広島長崎の原爆被害を調査した日本人の主だった研究者たちが、日本の侵略戦争に協力していた、あるいは戦争中に日本の原発開発に従事していたり、戦後に日本の原子力開発に関係していた。

 

  原子力発電における放射線h自爆の防護基準に集約される放射線被曝の危険性の評価については、アメリカ原子力委員会とその関連組織が最も大きな役割を果たしてきた。

 

  安全なものは「安全でございます」などとことさら宣伝しない。

 

 

2 アメリカの原爆開発と放射線被曝問題

 

  1928年、「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」が、医療におけるX線とラジウムを使用する放射線医師、放射線技師等の放射線作業従事者を放射線被曝による職業病から守る事を任務にしていた。メンバーは放射線及びラジウム関係の学会、放射線機器メーカーの協会、アメリカ規格標準局の代表からなっていた。

  第二次世界大戦中は被曝管理は完全なる軍事機密

  戦後、「マンハッタン工兵管区」が建前は民間体制の「アメリカ原子力委員会」へと衣替え。同時に1940年意向活動を停止していた防護諮問委員会が1946年暮れに活動を開始。

  防護諮問委員会の委員長だったL.S.Taylorにより防護体制の再編が着手。マンハッタン計画の大乗を委員会に加える根回しをする。マンハッタン計画を代表してS.L.WarrenK.Z.Morganが出席。NCRPと命名し、委員長はテーラーとなる。ウォレンは原爆投下直後に広島・長崎の調査に乗り込んだアメリカ軍合同調査委員会の主要メンバーだった。モーガンは同計画のオークリッジ研究所(旧クリントン研究所)で放射線被曝管理の責任者を務めたこの道の第一人者。

  NCRPには執行委員会、主委員会および七つの小委員会を設置。執行委員会は委員長及びR.S.Stone, E.G.Williams, G. Failla, Stanfford Warren。ファイーラもストーンと共にマンハッタン計画に深く関わっており、執行委員会は実質的にはアメリカ原子力委員会の別同部隊のようなものであり、完全にその支配下にあった。ちなみに二人は北アメリカ放射線協会の代表となった。

  ストーンはシカゴ大学の冶金学研究所のプルトニウム保健部、すなわちマンハッタン計画の放射線影響研究の中心的指導者であり、彼の指導による研究において、がん患者の全身にX線を浴びせる人体実験が行なわれた。(1回あたり40レムまで、総被曝線量も300レムまでなら障害は現れず、耐用しうるというものであった。)

  ファイーラはNYメモリアル病院の放射線治療法の第一人者でマンハッタン計画の顧問を歴任し、戦後もアメリカ原始流億委員会のかくっ研究所の顧問や生物医学部の生物物理部門の長をかね続けていた。彼はまた、コロンビア大学の関係者や公衆衛生区浴にも大きな影響力を有していた。

  議長のテイラーはX線の線量測定が専門で、マンハッタン計画にこそ参加しなかったが、戦争中は空軍のオペレーションリサーチに従事、戦後派アメリカ原子力委員会に出向してその生物物理部門の長を務めるなど、産業界、軍、原子力委員会と深くつながっていた。

  ウォレンはマンハッタン計画の医学部長であった。アラモゴードで行なわれた初の核実験、トリニティ実験において、放射能測定を陣頭指揮。後に彼に代わってNCRPには言ったShields Warrenはアメリカ原子力委員会の生物・医学部の初代の長で、その人気後も一貫してアメリカ原子力委員会の諸組織の要職を務めた。彼が執行委員会に加わったことにより、NCRPに対するアメリカ原子力8委員会の影響力はいっそう強まった。

 

  執行委員会の5人中4人までが原子力委員会とつながっていたので、原子力委員会はNCRPをほぼ完全に掌握し、さらに小委員会の人事も支配。

 

  小委員会の最も重要な第一小委員会は、ファイーラが委員長を務め、メンバーはマラー(J.J.Muller)を除き、すべてマンハッタン計画の関係者だった。ストーンとパーカーは同計画の放射線影響グループの中心人物であり、A.H.Dowdyは同計画と深く結びついていたロチェスター大学グループの一人で、フリーデルは同計画と陸軍とのパイプ役であった。

 

  二番目に重要な第2委員会は、モーガンを委員長にファイーラ、パーカー、シールズ・ウォレン、ブルーズ(A.Brues)、ハミルトン(J.G.Hamilton)、ローズ (J.E.Rose)であった。パーカー、ハミルトン、ローズはいずれもマンハッタン計画のプルトニウム計画保健部のメンバーであり、彼はやがて広島・長崎の晩発性の被ばく影響研究の予備調査の指導的メンバーとして来日することになる。

 

  原子力委員会はNCRPに資金上でも年間5000ドル提供、そして報告書は事前検閲することとした。

 

  世界初の被曝防護基準は1931年の耐容線量地で、それを元にICRPの全身である国際X線およびラジウム防護委員会(IXRPC)が一日あたり0.2レントゲンを勧告。35年に0.1レントゲンに引き下げられた。

 

  1936年一日あたり0.1レントゲンであった線量値は1940年に高すぎるということで0.01レントゲンに引き下げられたが、41年、原爆開発のため、ファイーラが巻き返し、引き下げの実行は延期すると覆してしまう。

 

  1940年に引き下げ決定へと動かしたのは、耐容線量に対する遺伝学者からの批判だった。マラーが1927年ショウジョウバエの突然変異を発見したことから30年代を通じて遺伝学者に広がった。被曝により遺伝的影響が発生すること、しかも被ばく線量に比例することを他のどの分野の科学者よりも早く勝つ深刻に受け止めたのは遺伝学者たちであった。

 

  1930年代には原子物理学が休職に発展。放射線の利用は学術的研究から医学的分野へと急速に広がった。今後やカナダでラジウム鉱石が新しく発見された。ラジウムを利用したラドン水が健康飲料として大量に販売された時期でもある。

 

  上記に伴い、新たな産業が続々登場。アメリカのバークレー放射線研究所はホウ砂y性同位元素を世界中に供給し始めた。ロックフェラー財団やデュポンなどの科学団はバークレーの大型のサイクロトロンの建設に資金を供給し、巨額を必要とする放射線分野に進出し始める。

 

  1938年、ウランの核分裂が発見されると、カーネギーメロンやモルガンの大財閥も触手を伸ばし始めた。それらの金融独占体の下にある、ユニオンカーバイト&カーボン、モンサントなどの科学独占体、GEWHなどの電気独占体が、新たに原子力産業分野へと乗り出した。

 

  すでに30年代から放射線障害は発生していたが、原子力産業の利益と原爆開発のため後回しにされていた。

 

  遺伝学者マラーは広島長崎の原爆投下直後から強い危機感を抱き、安全線量など存在しないと耐用線量への批判を行なった。1946年にノーベル医学生理学賞を受賞。再編されたNCRPは抱き込み作戦として、47年マラーを第一小委員会のメンバーに加え、批判派に対する巧妙な分断策を行なう。

 

 

3 国際放射線防護委員会の誕生と許容線量の哲学

  19481月、ファイーラは、執行委員会と原子力委員会との事前検討の後、外部費学線量に関する暫定報告をまとめた。初の許容線量の概念と共に、線量値を0.1レントゲン/日から0.3レントゲン/週へと約半分に引き下げた。

  19489月には英国と公式協議、英国組織は英国医学研究会議の防護小委員会の耐用線量専門委員会がNCRPcounterpartに。その後カナダを加え三国協議に。(英、カナダはマンハッタン計画に加わっていた)このときの実質上の開催者活指導者でもあったのは、各国原子力委員会だった。

  1920年に職業上の放射線災害が世界的に多発。放射線医師・技師・患者の間で急性症状、慢性症状、致命的な癌が数多く発生。またラジウムは夜光塗料として利用され、第一次世界体へ線を戦った兵士たちの間で普及。時計の文字盤に夜光塗料を塗りつけた米国女子労働者の間で骨肉酒や最政府調整貧血で生命を失う人たちが1924年頃から続出。アメリカの労働省や構成衛生局が全国的調査を行なわざるを得ないほどの大きな社会問題となる。IXRPCは職業病を防止することを大きな目的として誕生。委員は、イギリス、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの四カ国5名(その後六名)から構成された。

  IXRPC1948時点での生存者はアメリカのテイラーとR.Sievertのみ。テイラーは戦前事務局長につくように依頼されていたので、そうなり、1950ICRPとして誕生。

 

  IXRPCは放射線による職業病を防ぐために生まれたが、ICRPはアメリカを中心とする三国協議、すなわちマンハッタン計画の戦後の産物のひとつであった。かつての科学者組織は、アメリカの主導の下、核兵器と原子力開発の推進者たちにより、その推進体制に沿うものとして生み出された。

  ICRP再編のためにイギリスと協議を進める中、アメリカは最初にリスク受任論を出してきた。すなわち1、あらゆる害から免れることを期待するのは不合理である 2 放射線による感受性は人によって異なるが、平均的人間に受け入れられるくらいのリスクにする 3 放射線に最も敏感な組織は造血臓器である。 4 遺伝的突然変異には閾値は存在しないため、厳密な意味で耐容線量は存在しないので、許容線量といういい方が望ましい。(1949) 

  許容線量とは原子力労働者や一般公衆に対してそれらの被曝を受忍させるために政府などが法令等の規則で定めた放射線被曝の基準であり、放射線に最も弱く、したがって防護においては最も重要視しなければならない胎児や赤ん坊を始めとする弱者を切り捨てる思想から誕生した。

   マンハッタン計画の予算は22億円。1948年、水爆の開発を進めつつあった原子力委員会は戦後初めてプラスの予算を計上、1951年までに26億ドルに達し、原子力産業を肥大化させ、軍、産、学複合体を形成させることとなった。

  当時のICRPは勧告で、放射線の影響が回復不能で蓄積的であることを積極的に認めたため、1950年勧告では、「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と強い調子で勧告している。最大の要因は遺伝的影響の問題であった。

  ただし1950年の勧告に公衆への被曝限度を入れようとしたところを、アメリカ原理力委員会が強く反対し、明記されず、「可能な最低レベルまで」という文言のみが残った。

 

  1947年英国で科学労働者連盟、フランスで科学者連盟が原爆に反対の声明、1950年にトルーマンが朝鮮戦争で原爆を使用する可能性があると示唆すると、ストックホルムアピール署名運動が高揚。全世界で5億名の署名が集まった。

 

 

4 放射能による遺伝的影響への不安

 

 

原爆障害調査委員会(ABCC)は自らについて、「実際は全米科学アカデミー・学術会議と日本のおく率予防衛生研究所との純粋な学術的事業である」と一貫して主張してきた。

 

 

また19461126日にトルーマン大統領が全米科学アカデミー・学術会議に対してその設置を指令し、19471月に発足ということになっているが実際は違う(歴史の改ざんである)

 

 

実際のABCCの設立は、広島長崎の破壊力のうち、特に人体への殺傷力に重点を置く調査にあたった「日米合同調査団」を指揮した陸軍及び海軍の各軍医総監が、マンハッタン計画の推進時から密接な協力関係にあった全米科学アカデミー学術会議に対し、長期的に当初から軍事的計画日程に入れられていた原爆症外研究に関する包括的契約研究の一環として放射線の後障害、晩初的影響研究の組織化を要請して開始されたのである。

 

 

両軍医総監は、全米科学アカデミー・学術会議に原子力障害調査委員会ACCと呼ばれる組織を結成させ、メンバーは軍やアメリカ原子力委員会と密接な関係を持つ人たちで組織された。ACCの支配下にあることを具現するものとしてABCCの名称が与えられた。ABCCがアメリカ本国で結成されたのは当のACCの正式発足より早く、大統領指令よりも速い19461114日であった。

 

 

ABCCの先遣隊として日本に派遣されたのは、ABCCの委員の一人であるブルーズ(Austin M. Brues)とヘンショウ(Paul S Henshaw)のマンハッタン計画従事者に加えて、陸軍軍医段の二ル(Jim V. Neel)など軍医関係の五人であった。1125日に来日、これは大統領指令が発せられたとされる1126日より早い日付であった。

 

原爆投下直後に広島長崎の調査を行ったアメリカの調査団は、陸軍のマンハッタン管区調査団、海軍の放射線研究陣、そして太平洋陸軍指令部軍医団の混成部隊であった。彼らが入った9月上旬にはすでに最重症の被爆者はほぼ全員が急逝し、重症のものもおよそ半分が死亡。

 

 

一方新型爆弾が原爆であることを確証するために調査に入ったのは仁科義男、荒勝文策、浅田常三郎、田島英三らの物理学者、都築正男、中泉正徳、御園生圭輔、熊取敏之らの医学者のチーム。アメリカが日本の医学的調査の最高識者であった陸軍軍医中将の都築正男を日本側を代表するする科学者に吸えて調査団の名称を日米合同調査団とした。が、アメリカ本国における名称は、正式には「日本において原爆の効果を調査するための軍合同委員会」であった。

 

またアメリカは日本の協力を得やすい組織形態を追求。まずg連合軍最高司令官総司令部が厚生省に働きかけ、ABCC調査への協力を約束させ、国立予防衛生研究所を1947年はじめに設立。ABCCは実質的に軍とアメリカ原子力委員会の支配下にあり、財政的にも原子力委員会に依拠していた。

 

ABCCによる遺伝的影響研究は483月より始まり、追跡した妊娠例は7万例(追跡できたのはその三分の一)、ただし100レントゲン以上浴びたと推定される父親の数は1400人、母親の数も2500人に過ぎず、圧倒的大部分が低い線量の被爆例だった。プラス追跡例が少なかったことから、流産、死産、新生児死亡は正常の80%、先天異常や奇形は正常の100%増加が確認される必要あった。

 

 

アメリカは遺伝的影響はなかったと大々的に宣伝。

 

 

今日ではすっかり忘れ去られてしまった遺伝的影響と公衆の許容線量との関係!

 

 

遺伝的影響で重要な役割を担ってきたのはオークリッジ研究所。その責任者はマンハッタン計画時から同研究所で遺伝学研究をっすめてきたラッセルであった。彼はマウスを用いた動物実験で、突然変異の発生率が倍になる被ばく線量は30-80レムという値を得た。(1953)

 

 

1952年、アメリカのマラーは、子供を生む可能性のある期間における公衆の個人の被ばく線量として、ラッセルの動物実験の結果を下に80レムの25%、すなわち20レム以下にすべきであると主張。(NCRPに取り込まれたマラーはこのころにはNCRPの執行部に妥協的になっていた。アメリカはそのマラーの権威を最大限に利用して、公衆の許容線量問題で主導権を握ろうとしたのである)

 

 

イギリスの代表団は、突然変異は自然発生率の10%以下にすべきであり、被爆量は8レム以下が望ましいという理由から30年で3レムとした。

 

 

ICRPの議長でもあったシーベルトは、スウェーデンでは自然放射線による30年間の被爆量が、木造家屋で5レム、レンガ・コンクリート家屋で15-30レムであることを理由に、イギリスの数値は厳しすぎ、5-8レムにすべきといった。

 

 

結局52年の会議では30年間に10レムにするという非公式の合意が成立。

 

 

1952年のICRPの結論

 

  英国では講習の放射線被曝は圧倒的に自然界からのものである

 

  公衆の障害における線量限度について声明する必要はない。

 

  人口の多くの部分が被曝するような場合はかなりの安全係数を考慮して職業被曝の許容線量を週0.3レムよりも引き下げる必要あり。(公衆の障害線量10レム案は消される)

 

 

1952年から1953年にかけ、遺伝的影響が最大の論点で、アメリカの主導権は発揮されたものの、過半数を占めていたヨーロッパとオーストラリアと対立。1954ICRPの勧告

 

  NCRPのリスク受忍論受け入れられずアメリカ、「無視しうるリスク」を文言に入れることに成功

 

  遺伝的影響の受忍認めず職業被曝の許容線量を設定する上で遺伝的影響を制限要因にはしないというアメリカ案に譲歩

 

  公衆の許容線量:ヨーロッパは職業人の10分の1、アメリカは未成年に限って(このときは未成年は入っていたのね!)

 

 

 

ICRPは次第にアメリカの許容線量の考えに近づき、核開発のため許容線量被曝が無理強いされること自体には、なんの本質的疑問も抱かなかった。

 

 

5 原子力発電の推進とビキニの死の灰の影響

 

 

1953、8月ソ連水爆実験成功

 

 

アメリカが水爆開発に全力を注いでいる間にソ連やヨーロッパでは原子力発電技術開発休職に進展。

 

1954年、ソ連世界では角原子力発電の運転を開始。英国、フランスも原発計画発表。その間アメリカは多種多様な実験炉と原潜の開発。原発の実用化は遅れ、遅れを取り戻すのがアイゼンハワー大統領の課題に。

 

 

マンハッタン計画の間から原子力の分野に進出していた独占体の中には、自らの資金力による商業路の建設運転を行ないたいという動き。例:モンサント化学

 

 

195312月、アイゼンハワー、原子力の平和利用という大転換策。

 

  国内の原子力法改訂で原子力の私的保有を認める、

 

  原潜から商業路への転換(1954ノーチラス号浸水1957シッピングポート原発)

 

  原子力技術の輸出

 

 

 

1954年春 中曽根代議士ウラン235にちなんだとされる2億三千5百万の原子炉築造費。1500万のウラン探鉱費をS29の予算案の修正として32日に国会提出。

 

ところが一日前の31日、ビキニ事件。広島原爆1000倍の爆発力。

ロンゲラップの住民は50時間閉じ込められ、ガンマ線だけで175レムの被曝であったにも関わらず、米原子力委員会は14レム、年間許容量の15レムに満たないとした。

 

 

 

ロンゲラップ1957年、ウトリック1954年、ビキニ1977年、エニウェトク1980年帰島したが、その後残留放射能に悩まされる。1982年、アメリカエネルギー省は、ロンゲラップ島の残留放射能は年間0.4レムで影響はないと発表したが、その後も出生異常が絶えず、1985年、再び離島。

 

 

 

ビキニ事件ではガンマ線だけでもおよそ200レム。地球的な汚染をもたらした。

 

 

19544月、NYのトロイの水道が核実験の死の灰により汚染。

 

 

19548月、日本で2000万人の署名。

 

 

1955年、ラッセル=アインシュタイン声明。トロイの水道、マスコミで暴露される。L Pauling(市民派科学者)とW. Libbyの間の大論争。米国内でも放射線に対して敏感な反応。

 

 

被曝問題が大きくなると、学術界があたかも第三者であるかのような顔をして必ず登場する。その歴史上始めの例がアメリカのBEARである。

 

 

ロックフェラー財閥は30年代から放射線の商業利用に着目し、マンハッタン計画の下で原子力を一大産業に育てた。同財閥の中核であるスタンダード石油が、新エネルギー源として着目し、原子力に職種を伸ばした。

 

 

ロックフェラーとカーネギーメロンの量金融独占グループが支配するユニオンカーバイト&カーボン社は、ウラン鉱石と拡散法によるウラン濃縮工程を独占。

 

 

カーネギーメロン傘下のWHも資本参加、自ら支配するバブコック&ウィルコック社を通じて原子力進出。

 

 

ロックフェラーグループは財団を通じて生物、公衆衛生の研究に力を注ぎ始めていた。その最中にビキニ。財団は先頭に立って動く。時の国務長官John F Dullesは、ロックフェラー財団の前の理事長であり、原子力委員会にも太いパイプ。財団は原子力委員会の大物化学者Jhon C Bugherと密接な関係。ビューアは1952年に原子力委員会の生物。医学部長になり、ABCCの体制整備で腕をふるい、ビキニ事件の際は放射能による被害をひたすら隠し、過小評価に勤めた。1953年以来NCRPの委員になっていた。1956、財団市の拝問題の打開に表立って動き、その時に同財団の大乗をシ、原子力委員会の諮問委員に納まり、利益を追求。政府と原子力産業が一体となって動き出した。

 

 

1955、ロックフェラー財団は全米科学アカデミーに対し、「原子放射線の生物学的影響に関する委員会(BEAR委員会)」の設立を公式に要請。その資金に50万ドル拠出。尾も足る委員会の遺伝学と病理学の委員長にロックフェラー財団のW WearverAECのシールズ・ウォレンが就任。他のメンバーにもファイーラ、ブルーズ、ニールなど金太郎飴みたいな顔ぶれ。

 

1956年6BEARが異例の速さで報告をまとめた。焦点は遺伝学的影響調査。

 

  合理的被曝はやむをえない。

 

  遺伝的影響の倍加線量は、5から150レムの間。合理的名線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に50レム以下、40歳までにさらに50レム以下、公衆の場合は30歳までに10レム以下。

 

  労働者の許容線量は年間15レムから年5レムに引き下げるとともに、公衆に対してもその10分の1の許容線量を設定。(ビキニ事件で大衆的な圧力にあったとNCRPのテイラーも認めた。放射線防護問題に対するビキニ後の情勢変化を考慮するなら、政府・資本と労働者・市民との対立激化を避けねばならないーBEAR報告には、このような計算が潜んでいた。)

 

  遺伝の倍加線量は30ないし80レム。

 

 

NCRPにもBEAR報告が勧告した年5レムに基づく5レム×(年齢-18)を障害での集積線量として採用。公衆に対しては、医療を含む人口放射線からの被曝量を一人当たり年5レムとする。(今はない!)

 

 

ICRPと原始放射線の影響に関する科学委員会UNSCEAR(ビキニ事件を契機に設立したが、本質的には原子力の平和利用をスムーズに進めるためのものだった。委員は科学者ではなく、国家の代表から構成。アメリカが強い反対を押し切ってそのようにした。その大きな狙いは人類的影響を問題にする遺伝学者を排除すること)への対策が問題となる。

 

 

英国もBEAR委員会とよく似たMRCを立ち上げ、似たような報告を挙げた。(各戦略が背後にあり、1952年に核実験成功)これにより、ICRPの不協和音が消える。

 

 

ICRPと国連科学委員会の関係は、1956年に国連科学委員会がICRPに報告書を作成して欲しいと依頼したことから公的に始まった。1958年にICRPから出された勧告はアメリカのNCRP1956年勧告とほぼ一緒。

 

 

1958年のICRP勧告はリスクベネフィット論(この頃先進工場国がこぞって原子力開発)1956年から日本の中和泉正則やイタリアの代表がICRPの委員に加わっていた。

 

 

1950年勧告では可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)、58年では実行可能な限り低く(as low as practicable ALAP)と緩められた。

 

 

アメリカを代表する遺伝学者マラーは、すでにNCRPの許容線量の委員会メンバーとしてNCRPよりの姿勢。そのマラーが、55年の国連原子力平和利用会議で放射線の遺伝的影響について報告しようとした。そのことを知った原子力委員会は圧力を掛けてマラーの発表を行なわせなかった。原子力委員会は微量放射線の影響を元に放射線に安全線量は存在しないとする主張を徹底的に排除しようとした。

 

 

唯一国連科学委員会が異なっていた点は、米英とソ連チェコスロバキアは核実験即時停止に対して真っ向から対立。被曝当事国日本からは都築正雄や田島英三らが代表として参加。なんと日本は核実験の即時停止に反対。結局、核実験即時停止案は、少数意見として葬り去られた。

 

 

 

1955年の原子力平和利用会議が母体となって生まれた原子力推進のためのIAEAも推進の立場から放射線被曝基準の制定を目指して検討開始、国際協調の総仕上げとも言うべき集まりが、588月末ひそかにスイスで開催。以後、この協調体制が、隠れた原子力推進体制となり、政治的な役割を果たす。

 

 

 

 

6 放射線によるガン・白血病の危険性

 

 

1957        イギリス水爆実験、1958年フランス原爆実験、米にて反対団体SANE設立、映画「なぎさにて」が人気。ウィンズケールにて2万キュリーを超える放射能汚染。放射能汚染ミルクを大量に海に投棄。しかし原発推進と軍事機密のため隠され続け、事故後30年経って明るみになる。核施設で働く人のガン、白血病の問題が議論になる。

 

 

 

1958        ポーリングら科学者9000名、核実験の停止要求を国連に提出

 

 

 

ICRPも国連科学委員会も、放射線被曝に閾値はないと認めたのは遺伝的影響に限ってのことであった。ガン、白血病の安全線量が存在するかどうかが論点となるが、両組織とも存在するように宣伝、核実験は安全であると主張していた。

 

 

1953年、原子力委員会は核実験の死の灰によるガンの発生について密かに研究を開始。原子力委員会のリビー、アイゼンバッド、BEARのビューアが主要メンバー。「サンシャイン計画」と呼ばれたその研究は、全米に降ったストロンチウム90のデータを元に、体内に取り込んだストロンチウム90による被曝の影響を評価するもの。過小評価し、PR作戦をしていたが、彼ら自身大問題となることを見越していたのである。

 

 

大型の水爆になるに従い、ミルクなどのSr90の濃度が増えだした。

 

 

ICRPも米原子力委員会やNCRPと同様の白血病やガンの考え方だったが、国連科学委員会のほうはソ連とチェコスロバキアが入っていたので、ガン・白血病の発生率は被ばく線量と共に増大するとした。一方アメリカをはじめとする多数派はよくわかっていないという理由で核実験即時停止の要求と共に葬り去ってしまう。(国連科学委員会は「いかに少量の放射線でもこれをうけると有害な遺伝的影響と、また多分身体的影響が起こることを免れない。」とした。)

 

 

これに対し、アメリカ原子力委員会は、1958年後半あたりから、100レム以下ならガン、白血病は発生しないと主張。その根拠は長崎広島のABCCデータであった。

 

 

ABCCの主な結論は2

 

1. 放射線急性死には閾値が存在し、その値は100レムで、それ以下の線量を浴びても死ぬことはない。(9月始めまでの急性死。10月から12月までは除外されていた。)

 

2. 放射線障害も閾値があり、その値は25レムで、それ以下の被曝は人体になんらの影響も生じない。(急性障害には、市販、口内炎、歯茎からの出欠、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、倦怠感、発熱、出血等があり、4-5km地点でも見られたが、そのうち、脱毛、紫斑、口内炎のみを放射線急性障害と定義し、これらは2km以遠ではほとんど見出さされないという調査結果。2Km地点での線量は約25レム。

 

 

ABCCによる晩発性の影響については、二キロメートルないと二キロメートル以遠(低線量ヒバクシャ)で比較を行い、つまりは過小評価と二キロメートル以遠の人々の放射線の影響を切り捨てた。そして二キロメートル以内の中でこう線量ヒバクシャと低線量ヒバクシャを比較対照した。

 

 

 

広島の白血病の死亡率は日本の平均の約半分であった。ところが、戦後は全国平均の約2倍、つまり戦前の広島の3倍以上となった。1960年以降は日本の全国平均を下回り、60年代末には戦前とほぼ同じ水準の日本の平均の半分にまで下がった。ところが70年代になると再び上昇。理由は広島が政令指定都市を目指し、低線量被曝の周辺地域を合併、黒い雨が降った地域も含まれていたため。

 

 

被曝後20ヶ月もしくは33ヶ月たっていてもリンパ球等の減少が確認されている。1950年以前には血液、造血系の疾患や感染症が多数発生したが、それらの死はABCCは全く考慮に入れず。

 

 

爆心地近くの建物破壊がひどく、市外に移り住んだ高線量ヒバクシャを対象から除外。

 

 

就職等により他都市に移住した若年層を除外。

 

 

ICRPや国連科学委員会はこのように過小評価されたデータに基づき、一万人・レムあたり、ガン白血病氏のリスクを一人という値を出した。(見直すと1000人レムあたり一人)

 

 

7核実験反対運動の高まりとリスク・ベネフィット論

 

 

1958年、ソ連、一方的に核実験を停止、同時に米英仏に対し即時停止を求めた。

 

 

アメリカは1959年に核実験を一時停止すると声明し、停止前の駆け込み核実験を1958年に集中的に行なった。米全土で死の灰の効果量増大→56年から57年に欠けては53年から54年に欠けてと比べるとミルク中のストロンチウム90の濃度が5倍に。人体に蓄積された濃度も同様の傾向。

 

アイゼンハワー、1放射能問題を原子力委員会でなく他の機関に(連邦放射線審議会FRCを新設→NCRPは反撃のためリスク受忍論の手直し案を出す) 2推進派の科学者を総動員し、フォールアウト批判を押さえ込む(上下両院で原子力派の科学者たちが低線量被曝でガン・白血病の心配はないと論陣) 3学術機関の権威を使い、放射能不安が根拠のないものであるという評価を定着させる(全米科学アカデミーの会長に根回しーBEAR報告の改訂版)

 

1963          1963年大気圏内核実験禁止条約の締結